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バングラデシュの混乱と政情不安はどこまで深まるのだろうか?(その2)

 政情不安、治安の悪化が続くバングラデシュ。多くのバングラデシュ人から冷静さを失わせ、暴力の連鎖を生み出し、国家を分断させているイシューとはなんだろうか?以下3回の記事に分けて、「票」、「正義」、そして「アイデンティティ」の3点をキーワードに議論していきたいと思う

 バングラデシュの昨今の政情・治安状況については前回の記事をご覧下さい。
  『バングラデシュの混乱と政情不安はどこまで深まるのだろうか?(その1)

1.「票」をめぐる 分断
 
 バングラデシュは本年末に総選挙を控えている。

 選挙に向けて、競合する政党が、互いを否定しあう“ネガティブ・キャンペーン”を展開し、選挙妨害、選挙結果の操作、そして暴動といった様々な問題を生み出してしまうのは、多くの途上国に共通する現象だ。特に、主要競合政党が、国を構成する別々の民族をそれぞれの支持母体としている場合、選挙をめぐって大規模な暴力が発生しやすい。2007年末の選挙に端を発するケニアの危機はその好例だろう。

   バングラデシュについては、1991年の民主化以降、アワミ・リーグBNP(Bangladesh Nationalist Party:バングラデシュ人民主義党)という2大政党を中心とする連立政権が各5年の任期を全うしながら、BNP→アワミ→BNP→アワミの順で選挙のたびに政権交代を経つつ、今日に至っている。選挙結果を踏まえて権力者が交代してきたこと、そしてその時々の政権与党が5年間の任期をしっかり全うしてきたという点で、バングラデシュは優等生と言えるだろう。また、人口の99%がベンガル語を話すベンガル人、9割近くがイスラムを信奉しているバングラデシュでは、上記2大政党が異なる民族や宗教を代表している訳ではない。したがって、選挙において民族や宗教の違いが、対立軸として表面化することはない。

 しかし、来る総選挙に関しては一つ厄介な問題が燻っている。それが、選挙を実施する方法、つまり「政権与党ではなく、中立的な選挙管理内閣(Care-taker governent)の下での総選挙実施を求める憲法の規定を復活させるべきか否か」であることは、年末にアップした記事「政情不安はなぜ繰り返されるのか」で詳しく紹介したところだ。また、アワミ・リーグの党首である現首相シェイク・ハシナと、BNPの党首カレダ・ジアという二人の女性は、それぞれ相手のことを「自分の父親と家族を殺した」、あるいは「自分の夫を暗殺した」と思い込んでいる仲であり、こうした個人的憎しみが必要以上に両党間の感情的対立を増幅させ、その結果、多くの不幸を、そして時に喜劇としか言えないような珍事をこの国にもたらしてきたことについては、「8月15日は喪に服すべきか、国民総出でお祝いすべきか?」の記事を参照頂きたい。  
                 Bangladesh Politics           

  ~左側が現政権与党のリーダー。上は建国の父であり初代大統領であるシェイク・ムジブル・ラーマン。現首相のシェイク・ハシナ(左下)はムジブル・ラーマンの娘だ。一方、野党第一党のBNPの党首であり前首相のカレダ・ベグム・ジア(写真右下)は、ムジブル・ラーマンの暗殺後に就任した二代目大統領ジアウル・ラーマン氏(写真右上)の妻だ。~


 最近ほぼ毎日発生しているホルタル(暴力行為を伴うデモ)のうち、野党BNP主導で実施されるものについては、基本的に「選挙管理内閣の復活」「“専制的な政府による弾圧”で逮捕されているBNP幹部の釈放(実際は、ホルタルの際に器物損壊等を主導した罪で逮捕されている)」を名目に実施されているものだ。

 他方、現与党のアワミ・リーグは、その影響下にあるメディアなども活用して、ホルタルを連発する野党BNPを随分と非難しているが、何を隠そう、彼らが野党だった2001年から2006年までの5年間に、アワミ・リーグは計173日もの全国規模のホルタルを実施した堂々たる実績があるのだ。要するに、野党は国会での論戦ではなく、ホルタルという議場外での示威行為でもってその存在感を示し、政府・与党の失策を追及するのがバングラデシュでは常態化していると言える。

 また、ホルタルというと、バスや車に火がつけられたり、大勢の暴徒が警官隊に対してレンガや「カクテル爆弾」と言われる手製爆弾を投げつけている衝撃的なシーンがメディアに映し出されるが、これも少し冷静に見たほうが良い。 と言うのは、ホルタルで暴れている多くの暴徒は、双方の政党が追求するアジェンダに心酔しているハード・コアな支持者という訳では決してなく、「一日ホルタルに参加したら100タカ(約100円)」「カクテル爆弾を見事爆発させたら2,000タカ」という政党からの「求人広告」に応じて動員された、暇をもてあまし不満を抱える若者たちだからだ。彼らの多くは「選挙管理内閣の復活」や「政権交代」に青春をかけている訳では必ずしもなく、単に、バイト感覚で憂さ晴らしが出来る、ということで、ホルタルに参加している訳だ。
 
 この点、ホルタル期間中に、バスや列車が襲われているテレビの中継や新聞報道などを注意深く見ると、石やレンガなどをバスに投げつけ、乗客や運転手が急いで逃げ降りた後に、カクテル爆弾を投げつけて火をつけていること、列車の爆破に関しても、乗客が降りたことを見計らって火を放っているケースが多いことに気付かされる。
   
  hartal
   ~ホルタル時にダッカ市内で火を放たれ炎上するバス(写真出展:Daily Star)~ 

 もちろん、こうした行為は危険極まりないし、暴動を止めに入る治安維持部隊との衝突などにより死者や多くのけが人が実際に出ているので、絶対に興味本位で近づいたりすべきではない。しかし、アフガニスタンやパキスタン、あるいはイラクなどで発生している、「人を殺すことを当然の想定とする自爆テロ」と、バングラデシュのホルタルとは、まったく質が異なるものであることは確かだ。少なくとも、アワミ・リーグやBNPの多くの支持者や、彼らが実施するホルタルに参加している若者は、全身全霊をなげうって政治活動に関わっている訳ではないのだから。

 こうしてみると、二大政党間の「票」をめぐる分断と、その結果として発生するホルタルは、確かに危険で、多大な経済的損失をもたらすものだが、バングラデシュでは「毎度おなじみの」、「選挙が終われば落ち着く」、そして「寄せ集めの若者が暴れている」、打ち上げ花火のようなものと言える。

 ホルタルに慣れていない外国人は街中でバスが炎上しているのを見ればギョッとするかもしれないが、一般のバングラデシュ人は、ホルタルが起こっても、リスクを巧みに避けながら淡々と日々の仕事や生活に勤しんでいる(もちろん、多少の不便は感じているだろうが)。

    こうしたことから、仮に、今年2月以降発生している一連の騒動やホルタルが2大政党間の選挙に向けた権力闘争という、従来と変わらないものであれば、こんなにも連続してホルタルが起こることもなければ、外国人居住区で爆弾が炸裂することもなければ、一ヶ月で100人以上の人が死ぬこともないだろうし、誰も「独立以来最大の試練」なんて、大げさなことは言わないだろう。

 では、何故今回は違うのか。それは、今バングラデシュで表面化しているのが「票をめぐる争い」だけでなく、これを超える、極めて感情的で根深い「正義」「アイデンティティ」というイシューが絡む分断
だからだ。 (続く)
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(6) | トラックバック:(0) | 2013/04/16 12:16

バングラデシュの混乱と政情不安はどこまで深まるのだろうか?(その1)

 4月8日月曜日、時刻は午後5時半を少し回った頃だった。

 ダッカの繁華街、グルシャン1交差点から南へ5分ほど歩いたところにあるIFC(International Finance Corporation:世銀グループの民間企業向け投融資部門)のオフィスは閑散としており、僕がたたくラップトップのキーボードの音を除けば静寂が支配していた。 ホルタル(暴動を伴う政治デモ)が実施される日は、安全確保のため、世銀や国連職員に対しては、自宅勤務が奨励される。しかし、自宅のネット環境は弱く内部システムにアクセスするのに膨大な時間の浪費を強いられるほか、会議室やビデオ会議システムもないため、あまり仕事にならない。こうした中、セカンド・オフィスとして最近多くの世銀職員が利用しているのが、外国人や富裕層の居住区であり大使館街であるグルシャン地区にあるIFCのオフィスなのだ。階下にはDFID(英国政府の援助機関)のオフィスがあり、JICAのオフィスへも歩いて3分程度。ここならホルタルの日でも、鉄パイプや火炎瓶、手製爆弾で武装したデモ隊と遭遇することなく自宅から通え、集中して仕事が出来る。美味しいエスプレッソやサンドイッチが手に入るお気に入りのカフェもすぐそばだ。僕は最近IFCのオフィスに入り浸っていた。
 
 ふっ、とオフィスの明かりが消えた。「あれ、停電かな?」と思ってスクリーンから顔を上げた瞬間だった。

 ドン!!
 
 腹の底を持ち上げられるような音がしたかと思うと、目の前の窓から黒煙が昇るのが見え、続いて硝煙のにおいがオフィスの中にも立ち込めた。窓の外を見ると、IFCオフィスの数十メートル先、僕がいつもランチをするレストランのすぐ目の前で、一台の車が炎に包まれている。野次馬の叫び声、機動隊の駆け足、そして消防車のサイレンが聞こえる。もしも、ほんの5分前に「ちょっと気晴らしに」と、いつものあのレストランにコーヒーを買いに行っていたら・・・心臓の鼓動が高鳴るのが聞こえる。じっとりと汗をかいた手を握り締めながら、僕は炎上する乗用車を見下ろしていた。

 バングラデシュの政情不安、治安悪化に歯止めがかからない

 膨大なビジネス・チャンスが失われ、一般市民の生活はますます厳しくなり、そして多くの貴重な命が失われている。ダッカ商工会議所の試算によると、一日のホルタルによる経済損失は約160億タカ(約200億円)に上るという。子供たちが必死になって準備してきた中等教育終了試験も度々延期を強いられるなど、政情不安は教育現場にも大きな影響を与えている。ちなみに、ダッカ在住の自分が聞き飽きてしまった「ホルタル(Hartal)」という言葉に馴染みのない人が、ホルタル日にダッカをはじめとする主要都市の市街地で何が起こるのかを理解するには、僕の記述よりも、例えばこちら、4月1日付けのBBCニュースを見てもらったほうが早いだろう。

 ホルタルとは、シャット・ダウンを意味する。 もともと、ヒンドゥー語のHat(市場)とTal(閉鎖)が合わさって出来た言葉であり、市場の商人や店主が市場を閉鎖して客や取引先に抗議をする手法として、イギリスによる植民地支配の前から南アジアでは定着していた。

 しかし、今日のHartalは、「異議申し立て」という目的において数百年前のそれと変わらないものの、その規模と内容において大きく変質している。つまり、政党あるいは宗教団体が大掛かりなデモを実施するために街全体を「シャット・ダウン」するのだ。具体的には上記BBCの映像が映し出すとおり、移動中の車やバス、オートリキシャを見つければレンガや火炎瓶を投げつけて動けなくし、燃やしてしまう。線路の枕木をはずし、列車を脱線させる。停車中の列車を爆破する。幹線道路に丸太を大量に転がして物流網を遮断する。そして、こうした行為を止めに入る警官隊や機動隊等と衝突するなど、手段を選ばない。今年3月以降、ホルタルにより100名を超える死者が出ているが、これにはデモ隊だけでなく、応戦する警察や、巻き添えになった一般市民も含まれる。先日は、国連職員が乗る車がデモ隊と遭遇し石やレンガでの攻撃を受けた。国連職員や外交官の車はいわゆる「イエロー・プレート」がついているが、デモ隊にとって、そんなことはお構いなしだ。

 どうしても実施しなければならない重要なミーティングが不幸にしてホルタルと重なってしまった場合や、ホルタル日に空港から出国しなければならない場合には、救急車を使って移動を試みる人もいる。「急病人が乗っている(はずの)救急車なら、さすがのデモ隊も見逃してくれるだろう」という目論見での「救急車作戦」だが、最近はこれも危うい。3月末、民間銀行のビジネスマンが救急車で市の南部を移動していたところ、遭遇したデモ隊に止められチェックを受けた挙句、路上に引きずり出されて殴る蹴るの暴行を受けるという事件が発生。不幸なビジネスマンは、結局同じ救急車で病院に担ぎ込まれた。 
  
       Hartal pic    
  ~写真左上は、ダッカ中央駅での列車の爆破、右上は警官隊と衝突するデモ隊、右下はコミラ-ダッカ間の線路からの枕木除去により脱線した車両、左下はダッカ市内南部でホルタル参加者により火を放たれた一般車両~

 こういう状況だから、富裕層居住区・大使館街であるグルシャン、ボナニ、バリダラ地区を除けば、ダッカ市内を移動するには相当の覚悟が必要だ。そして、冒頭の出来事が象徴するとおり、最近はついに、この3地域も「聖域」とは呼べない状況となりつつある。
 
 では、ホルタルはどのくらいの頻度で実施されているのだろうか。昨年まではせいぜい月に2回程度だったが、3月に入ってからは激増。下記のカレンダーが示すとおり、3月は19営業日のうち、まともに働けたのは10日だけ。今週にいたっては、ウィークデーのうち4日がホルタルだ。来週(4月14日の週)も野党が既に水曜日と木曜日にホルタルを実施する旨、宣言している。
Bangladesh Calender 
 ちなみに、上記カレンダーの「Hartal」マークは、全国規模のホルタルが実施されている日のみに付されているに過ぎず、これに加え、チッタゴン、シレット、ボグラ、ラッシャヒといった地方の主要都市や管区のみを対象としたホルタルも実施されている(しかも発生する暴力の程度は、地方都市や農村のほうがむしろ高い)。つまり、3月以降、週末を除けば、バングラデシュでは落ち着いて仕事や生活をし、あるいは観光を楽しめる日は殆どないという事態に陥っている

 電力不足や渋滞は酷いけれど、人々の一体感が強く、安全・平和が売りだったバングラデシュが、どうして、このような事態に陥ってしまったのだろうか?バングラデシュに関わる人が皆揃って損をするように見えるホルタルは、なぜ繰り返し実施されるのか?今後展望は開けるのか?状況を打開にするには何が必要か?本シリーズでは、こうした疑問と出来る限り深く、多面的に向き合ってみたいと思う。

 細かい話に入る前に、まず強調したいことが三つ。

 第一に、バングラデシュの現在の混乱は、本年末に予定されている選挙に向けた既存2大政党間の権力闘争を超えた、複雑なテーマが多分に入り込んでいる、ということだ。従って、「今回の騒動は、5年に一度の選挙を前にした毎度お馴染みの騒ぎ」という見方は事の性質を十分に捉え切れていないと思う。 このことは、一連の騒動に現与党アワミ・リーグ、そして野党第一党のバングラデシュ民族主義党(Bangladesh Nationalist Party)という二大政党が率いる政治政党以外の、宗教界、及び市民社会それぞれに根を張っている複数の勢力が深く関わっていることからも明らかだ。

 また、「イスラム原理主義者による大規模デモ・暴動」というヘッドラインで報じる外国メディアを見かけるが、これも事態を正確に捉えていないだけでなく、「イスラム原理主義」という定義不明瞭な欧米の造語でムスリムを表現し、ムスリムに対するネガティブなステレオ・タイプを助長するという意味で、鵜呑みは厳に避けたい。例えば、暴動で衝突している 双方のグループに、イスラム教の教えを大切にしている人々は存在する。また、本ブログでは暴徒の攻撃を受けたヒンドゥー・コミュニティにスポット・ライトを当てているが、別なシーンで一方的な暴力を受けている人の中にはムスリムの人々も含まれるし、被害を受けた宗教的・民族的マイノリティを献身的に助けているムスリムも大勢いるのを僕は数限りなく耳で聞き、目で見ている。

 そして最後に、バングラデシュは今、独立以来最大の試練に直面しており、事態はさらに悪化する可能性が高い。しかし、この国がアフリカや中東、そして南アジアの一部の国々のような全面的な内戦やテロリズムの跋扈という事態に陥ることはないと思う

 何故最大の試練か--それは、現在起こっている暴動と背景にあるテーマが、過去バングラデシュが様々な試練を乗り越えるに当たって発揮した耐久力(Resilience)の源泉である、国民としての一体感や、コミュニティに息づく社会資本を傷つけるものであるからだ。

 では、なぜ国の崩壊につながるような事態は避けられると言えるのか---それは一連問題作り出し、またそれを解決しうるのは、他ならぬバングラデシュ人一人ひとりであり、その解決の方法は金でも軍事力でも外国の介入でもなく、彼ら同士の継続的な対話であるところ、バングラデシュ人が、その考え方、価値観、政治的利害の違いにもかかわらず、「言葉」を共有しているからだ。

 以上を3点を強調した上で、次回の記事では、多くのバングラデシュ人を暴力に走らせ、国家を分断させているイシューについて、「票」、「正義」、そして「アイデンティティ」の3点を軸に議論していきたいと思う。(続く)
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(5) | トラックバック:(0) | 2013/04/09 18:57

破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その5)

 竜巻による甚大な被害を受けたブラモンバリア県ジャルイルトラ(Jaruiltora)村に入った僕は、重傷を負ったものの病院に行けず応急処置だけで寝込んでいるメンバーを抱える家庭を探しまわった。バングラデシュの農村では、モスクや学校、そして一部の富裕層の家を除けば、殆どの家がトタンか土壁で作られた質素なものであり、竜巻に襲われれば根こそぎ持っていかれてしまう。そして、強風で吹き飛んだトタン板や竹の柱は凶器となって人々や家畜に襲い掛かる。

 ダッカから東へ約100キロ離れたブラモンバリア県にて、3月22日午後に発生した竜巻の被害を受けた村々に対する支援に至る経緯は、下記記事をご覧下さい。  
   破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その4)

 この日、二番目にお邪魔したご家庭のご主人、24歳のロトン・ミヤさんは、竜巻に巻き込まれながらも九死に一生を得た一人だ。大工仕事で得ていた一月1万2千タカ(約1万2千円)の稼ぎで、奥さんのシリーナさん、7歳になる長男のアルファット君、5歳の次男リファット君、そして8ヶ月前に生まれたばかりのナディアちゃんを養っていた。

 ロトンさんは、その日も仲間とともに現場に入っていたが、突然の竜巻で倒壊した建物の下敷きになり、全身に傷を負ったほか右足を骨折した。しかし、一緒に働いていた5人の仲間は、吹き飛ばされ、あるいは建物に押しつぶされて亡くなったという。

  Bramonbharia 6
   ~傷付き、家も家財道具もすべて失ったが、家族は全員無事だったロトンさん一家~

 家族みなが無事だったのは何よりだったが、ロトンさんは松葉杖がなければ歩くことが出来ず、骨折した右足には包帯が無造作に巻かれているだけで、ギプスもつけられていない。被災地では大工仕事は引く手数多であろうが、これでは仕事に復帰できそうにない。しかし、病院でまともな治療を受けるための現金は一家の手元に、無い。そんなロトンさんに激励の言葉を添えて一万タカを手渡した。

 ロトンさんのテントから出ると、いつの間にか大勢の村人たちが集まっている。

 ジャルイルトラ村に着いてから、かれこれ1時間。村人たちの間に外国人がカンパを持ってやってきた、という噂が広まったのだろう。「私のテントに来て下さい」、「いや、うちが先だ!」、「この子の足を見て!こんなに酷く怪我をしている!」・・・みな、口々に窮状を訴え、僕の腕を引っ張る。ノアカリでの活動とは違って、現地でパートナーになってくれるNGOもいない。 取りあえず手を引かれるままにテントに入り、人々の話に耳を傾けるものの、どれも厳しい話ばかり。優先順位はつけ難い。しかし、このままでは僕と偶然出会った、声の大きな家庭にカンパを手渡していくことになってしまう。意味が無いとは言わないが、もう少し工夫の余地は無いだろうか。 
  
  Bramonbharia 7
                ~ 竜巻の被害や家族の窮状について必死に語る被災者の声に耳を傾ける ~  

 思案に暮れていると、ジュマのお祈り(金曜日の正午過ぎに行われるもっとも大切なお祈り)を告げるアザーンが、村にこだましているのに気付く。今なら、この村の男性全員がモスクに集まっている。ひょっとしたら全体感がより良くつかめるかもしれない・・・そんな希望を胸に、瓦礫の山を越えて、モスクに向かった。 殆ど無傷だったモスクでは、大勢の村人たちが、純白の帽子とパンジャビに身を包んで祈りをささげている。

 お祈りを終えて三々五々、家々に散っていく人々の中に、見覚えのある顔を見つけた。周囲に抱えられ、ぐったりとした表情のあの若者は・・・さっき病院にいくために20,000タカを渡した“18歳の大黒柱”ジュルハッシュ君じゃないか!?

 「何で彼はここにいるの?お祈りが大事なのは分かるけど、動かしたら余計悪くなるじゃないか。早く病院に連れて行ってよ!」

と詰め寄る僕に、彼を支える周囲の人々は、

 「いやいや、彼の状態が大変よろしくないので、一緒にお祈りをしていたんだよ。病院には後でいきますから。」

という返事。何ということだろう!!ジュルハッシュは自力で起き上がることも出来ないのに、モスクに運んでいってお祈りするなんて・・・これでは直るものも直らない。一刻も早く病院に連れて行くようにブロークン・ベンガル語でワーワー言っている僕に、「どうしましたか?」と綺麗な英語が語りかけてきた。振り返ると、一人の紳士が立っている。事の経緯を語ると、これまたパーフェクトな英語で丁寧に応えてくれた。

 「村を代表して、あなたと、あなたのご友人の皆さんに、心から感謝します。私の名前はマニール・ホッサン。イスラム銀行のダッカ本店でマネージャーをしていますが、私はこの村で生まれ育ちました。実家はすぐ近くです。今回私の村が被災したので、金曜日朝一番の列車でダッカから戻ってきた訳です。え!?あなたもあの列車に乗って来たんですか・・・本当に感謝しても仕切れません。幸い我が家は何とかつぶれずにすんだので、中でもっと詳しく話をしませんか?大丈夫、彼らには今すぐジュルハッシュを病院に運ぶよう、私からも伝えましたので。」 
 
 バングラデシュ有数の大銀行のマネージャーだけあって、マニールさんの実家はコンクリートで出来た立派な家だった。庭はなぎ倒された大木や倒壊した納屋で足の踏み場も無いが、家の中はほぼ無傷だ。冷たいジュースをご馳走になりながら、僕はマニールさんに相談した。

「村の皆さん全員が、本当に大変なのはよく分かります。ただ、今日持ってきているカンパにも限りがあるので、重傷者を抱えながらもお金がなくて必要な治療が受けられないでいる家族、特に、一家の中での稼ぎ手がそのような状況に陥っている家族を、優先的に支援したいと思っているのですが、状況がつかみきれません。力を貸して下さい。

 すると、マニールさんは僕の手を握り、「全面的に協力する」と力強くうなずいてくれた。村の様子を知り尽くした強力なパートナーを得た僕は、瓦礫の山の中で頼りなげに並ぶテントの群れへと戻っていった。 

  Bramonbharia 11
 ~被災者の家族構成や被害状況について、詳しく教えてくれたマニールさん。故郷思いの熱血漢だ。~

 マニールさんに伴われて最初に訪問したテントでは、老婆が一人うずくまっていた。目はうつろで焦点が定まっていない。
 
 「このお婆さん、今年70歳になるジャハナラ・ベグムさんといいます。この一家はね、私の知る限り、村の中で一番厳しい状態でしょう。」とマニールさん。

 なんでも、息子は数年前に土地を売って得た資金で飛行機のチケットを買って、サウジアラビアに出稼ぎに出ているが、未だ職が見つからないようで、まとまった仕送りが来ていない。そんな中、故郷のブラモンバリアで、年老いたジャハナラさんと、お嫁さんのリナさん、そしてジャハナラさんの孫に当たる二人娘、ファヒムちゃんとソニアちゃんが留守を守っていたところに、竜巻が襲ったのだ。家はなぎ倒され、下敷きになった末娘のファヒムは亡くなり、奥さんと長女は重傷を負って入院中だが手術費用が払えないため、満足な治療が受けられないという。一方、中東の地で、悪夢のような知らせを聞いたジャハナラさんの息子は、卒倒するほどショックを受け、すぐにでも帰国したい思いでいっぱいだが、帰りの航空券を買うお金ないので、今はただ、異国の地で職探しに励むしかない。一人娘を失い、残された娘と妻が生死の境にあるにもかかわらず。   
 
 あまりにも厳しい現実に、ジャハナラさんにかける言葉が無い・・・とにかく、リナさんとソニアちゃんの治療のために使って欲しいと告げて2万タカをお渡しすると、ボロボロ涙をこぼしなら何かをつぶやいているが、よく聞き取れない。マニールさんも、沈痛な表情で立ち尽くしている。

 マニールさんの話では、政府からはテントに加えて、被災者一人当たり3,000タカ、死亡者一人当たり2万タカの見舞金が支給されているらしい。しかし、これだけでは大きな手術代や長期にわたる入院費用は賄いきれない。また、被災者が生活を持続的に再建するには、仕事を始める元手が必要だが、それも彼らの手元には無い。
  
 次に出会った36歳のダナ・ミヤさんは、まさにそんな苦難のどん底にあった。瓦礫の上にぼんやりと座っていたダナさんは、18年間サウジアラビアで出稼ぎをして稼いだお金で家を建て、奥さんのムクセーダさん、12歳になった長女のムルセリンちゃん、そして8歳の末娘のムスタリスちゃんと暮らしていたが、竜巻は長年かけて作り上げてきた一家の幸せを一瞬して奪ったのだ。ムスタリスちゃんは倒壊した家の下敷きになり亡くなり、奥さんと長女は県病院でも治療が出来ないほどの重傷を負って、ダッカ市のメディカル・カレッヂ・ホスピタルに緊急移送され
 
  Bramonbharia 10

 貯金は無いのかとたずねると、竜巻被害に遭う3日前、新しい仕事を始めるために10万タカをかけて買ったオート・リキシャと、当座の入院代で全てなくなったという。そして買ったばかりのオート・リキシャは瓦礫と化してしまった・・・本当に辛い。ダナさんの手を握り、肩をたたきながら奥さんと娘さんの一日も早い回復を祈って2万タカをお渡しする。ダナさんは御礼を繰り返すも、その表情は硬いままだった。
 瓦礫の中を歩き回り、被災者の声に耳を傾け、マニールさんの助けを借りながら最も厳しい苦難の元にある家庭に義捐金を手渡していくこと数時間、ダッカから持ってきた10万タカ入りの封筒が空になった頃には、夕方の涼しい風が吹き始めていた。「また戻ってきます」そう約束して別れたマニールさんに見送られて村を後にしながら、改めて、災害に対する備えの大切さを思い知った気がした。

 世の中から竜巻をなくすことは出来ない。しかし、もしもジャルイルトラ村の家々の多くが、マニールさんのご実家のようなコンクリートの、あるいはレンガ造りの家だったら、僕が目にした被災地の風景は、大分違うものだっただろうまた、真夏日に発生する突然の雹(ひょう)といった竜巻発生の予兆に関する蓄積がコミュニティにあり、モスクのメガフォン等を使って村人に避難を呼びかけていたら、僕が耳した悲惨なストーリーの数はもっと少なかっただろう。 あるいは、政府が支給しなければならない見舞金やテントの数もぐっと少なくて済んだだろう。 
 
 特に人の命がかかっている局面でのタイムリーな緊急支援は大切だ。これでテントや病院のベットで寝たきりだった人が、必要な治療を受けること出来る。しかし、被災地の人々が、今後提供される義捐金で、家の修理のために昔と同じトタンを買うだけだったら、次の竜巻や台風で同じような目に遭うだけだ。彼らがトタンではなくレンガを、さらにはコンクリートで我が家の壁を作る力を得るためには、それに必要な元手を手にするための仕事と、忘れた頃にやってくる災害に対する感度をコミュニティ全体で高めていくことが欠かせない。長年にわたる本人の多大なる努力と政府や開発パートナーの支援によって積み上げてきた、ささやかだが確かな開発の成果と、何より大切な家族を守るために。 (終わり)
 
 
 
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/04/08 03:40

破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その4)

 「3月22日午後5時ごろ、ブラモンバリア県で巨大な竜巻が発生、約30人が死亡、500名が重軽傷、数千世帯が全壊」

 深夜にノアカリから戻った僕が週明け日曜日に目にした新聞の一面は、またしてもショッキングなニュースだった。

 バングラデシュはいわずと知れた災害多発国。1970年から2009年までの約40年間で、126のサイクロン、5回の旱魃、75回の大洪水、7回の地震に見舞われ、死者総数は51万6千人、被災者総数は3億7千6百万人に上る(出展: EM-DAT 2010)。たとえば、2007年11月に死者4,234人、負傷者約5万5千人、倒壊家屋150万、GDPの2.8%及ぶ経済損失という壊滅的な被害をもたらしたサイクロン、Sidr(シドール)は記憶に新しい。また、あまり知られていないが、冬の寒波で北部を中心に毎年大勢の死者が出るほか、東部の丘陵地帯では大雨による土砂崩れの被害が発生する。バングラデシュ政府や世銀・JICAなどの開発パートナーも緊急支援に加え、事前の備えの強化にも力を入れており、沿岸部を中心としたサイクロン・シェルター建設、護岸壁の構築、そして早期警戒制度の整備によって、以前と比べてサイクロンの死傷者が減っているといった成果も出ていることは、以前このブログでも紹介した。しかし、リソースは限られており対策は道半ばだ。

 竜巻の被害を報じる新聞記事を繰りながら、津波に全てをさらわれた東北の風景や、2005年8月のハリケーン・カトリーナで最も大きな被害を受けた米国ニューオリンズの第9地区の風景が、その土地の人々と交わした言葉や、胸に吸い込んだ誇りっぽい空気、そして冷たい瓦礫の重さとともに、脳裏に鮮明に蘇ってくる。

 「行こう、人々のもとへ」

 心を決めるまでに殆ど時間は必要なかった。幸い、僕の手元には、過激派の攻撃を受けたヒンドゥー教徒のコミュニティ再建のために友人や同僚から預かっている150万円以上の資金がある。この一部を竜巻の被災者の生活再建に役立てることができるはずだ。早速、まとまったお金を僕に預けてくれた友人に当初の目的外の資金利用について相談のメールを打つと、「池田君が正しいと思うことに使って下さい」という心強い返信をすぐに頂いた。多くの友人や同僚たちに力をもらった僕は、竜巻が発生した翌週末、3月29日金曜日の朝一番の列車でブラモンバリアに向うべく、ダッカ中央駅(コムラプール駅)を発った。 


 ブラモンバリア県はダッカから東へ約100キロ。列車では3時間程度と、先日来訪問しているノアカリよりは大分近い。指定席のチケットは取れなかったが、空いている席に何食わぬ顔をして座り込む。まぁ、どけと言われた時にどけばよいのだ。

  Bramonbharia 13 
 
 予定を大分遅れてコムラプール駅をゆるゆると出発した列車の車窓から見えるのは、線路脇で暮らす人々の生活の息遣いが聞こえる市場や集合住宅、そして列車に向かって手を振る子供たちの笑顔だ。時より響く列車の汽笛と、規則正しい列車の揺れに旅情が深まる。しかし、のんびりとした汽車旅を楽しめたのは30分程度。空港駅を過ぎたあたりから列車は大分混み始め、ちゃっかり座っていた座席の“正規のお客さん”がとうとう現れた。ついに席を明け渡さなければならない。これからは立って移動だ。

  Bramonbharia-1

 すぐ隣で同じように列車に揺られているバングラデシュ人の若者が、訝しそうな顔をしてたずねてくる。

 「君、外国人だろう?何で、汽車なんかで移動しているんだい?こんなに混んでいて、苦痛だろう?」
 「まぁね、でも、東京の電車の混み方はこんなもんじゃないよ。殆ど動けないような電車に揺られながら、毎日1時間かけて職場に向かうんだよ」
と返すと、信じられないといった表情。 「だって、日本はリッチだし、すごい技術をもっているんだろう?何で電車が混むのだ?」と畳み掛けてくるも、人の数が多いし、みんな一斉に出勤するんだから仕方ないですよね。そんな会話を交わしながら電車に揺られること3時間、ブラモンバリアに到着したのは午前11;00前だった。


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 ~ブラモンバリア駅でチッタゴン方面へと向かう列車に乗り込む人々。バングラデシュの人々は、降りる乗客を待った上で、順々に列車に乗り込む。まぁ多少荒っぽいところもあり、怒声が飛び交うことも稀ではないが、少なくともインド人よりは余程秩序正しく、また予測可能な行動を取る人々だ。~

 ブラモンバリアは、大都市の活気と地方都市の穏やかさが程よく中和した街だ。とりあえず駅前の露天で一杯5タカ(約5円)の甘いお茶でのどを潤す。ここで現地で活躍する青年海外協力隊の友人と合流して、竜巻の被害にあった地域へとCNG(天然ガスで動くオート三輪)で向かった。 

 竜巻が発生したのは3月22日の午後。その日、ブラモンバリアの天気は異常だった。真夏日だと思ったら急に雲行きが怪しくなって気温が下がり、季節はずれの雹(ひょう)が降ったという。その後しばらくして発生した巨大な竜巻が時速70キロのスピードで約8キロを南北に移動し、8つの村々と田畑を壊滅させたのだ。 

 「過激派に襲われたノアカリの村は小さな集落でしたけど、こちらは広範囲が面的にやられているので、どこから手をつけていいのか、悩ましいと思います・・・」

 既に被災地に何度も入っている協力隊の友人の説明を聞きながらCNGを20分ほど走らせていると、突如風景が一変した。街道沿いの街路樹が  立ち枯れた冬の木立のようになっている。枝もやけに短く途中から引きちぎられたような痛々しい姿だ。さらに根元から引き抜かれた大木の姿も目に飛び込んでくる。いよいよ被災地に入ったのだ。 
 
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 今回僕らが訪れたのは、ブラモンバリア県の県庁所在地圏内(ショドール)にある人口2千人程度のジャルイルトラ(Jaruiltora)村。街道から村へ入ると、服を荷台に山ほど積んだトラックの周りに大勢の人が群がっている。聞けば隣のコミラ県の市民が、被災者向けに寄付した服を運んできたという。ほかにも大勢のボランティアが市民から募った食料や生活必需品を被災地に運んでいるそうだ。  
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 「困ったときはお互い様」、「とにかく、自分たちが出来ることをまずやろう!」そんな想いでつながる相互扶助のネットワークが全国津々浦々のコミュニティに繁茂するバングラデシュの強みは、ここでも健在だ。心温まる風景はしかし、全壊したトタン家屋の瓦礫が一面に広がる強烈な風景にすぐに取って代わられた。行けども行けども、瓦礫の山。圧倒的な自然の力と、人々の苦しみを前に、途方にくれている自分がいる。今はただ、目の前の光景を直視するしかない。
  
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 瓦礫の山の中に、政府が配給した小さなテントが張られている。被災地の人々は、ただ黙々と、瓦礫を片付け、あるいは、支援に入っている現地のNGOや市民団体のメンバーらしき人々に被害の状況を淡々と語っていた。僕らは最初、ただただ歩いた。歩くしかなかった。誰にどう声をかけたらよいのか、どこから何をしたらよいのか、わかるはずもなかった。  

   暑い。汗が次々と滴り落ちる。どうしよう。誰に対して何をしたらいいのか分からないけれど、とにかく、話を聞かないことには始まらない。ちょうどすれ違った村のおじさんに、病院に行けずに残っているけが人は村にいないか尋ねると、一軒のテントへと連れて行ってくれた。

 テントの中には、瓦礫の山から何とか見つけ出した、僅かばかりの家財道具以外は、殆ど何もない。その何にもないテントの中に、一人の若者が母親に付き添われて横たわっていた。

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 大怪我をして横たわっていたのは、この一家の長男であり、今年18歳になるジュルハッシュ君だった。母親のファティマさんの話では、ジュルハッシュ君は、母と障がいを抱える父、そして3人の弟と3人の妹を、家具作りの仕事をしながら支える一家の大黒柱だった。ところが、仕事をしている最中に竜巻に襲われ、全壊した工房に押しつぶされて重症を負ってしまったのだ。病院にいかなければならないのは百も承知だが、治療費はおろか、県立病院にいくための交通費すら覚束ない。このままジュルハッシュ君に治療が施されなければ、彼だけでなく家族全員の命が危うい。ジュルハッシュ君の叔父さんに当たるザキールさんが駆けつけて、当座の食料などの面倒を見てくれているようだが、ザキールさんが暮らす隣の郡、アカウラも竜巻の被害を受けており、彼の家にも余裕はない。
 
 一刻を争う状況を前に、僕は友人たちから預かったお金のうち、2万タカをジュルハッシュ君に握らせ、耳元で若き大黒柱に伝えた。

 「ジュルハッシュ、大丈夫。絶対によくなる。君は、両親と妹・弟を守ってきた強い長男なんだから。このお金、君の家族を心配する大勢の友人から預かったものだ。これですぐに病院に行って、治療を受けてきてくれ。2-3週間後に戻ってくるから、そしたら元気な姿を見せてくれよ。」
 
 叔父さんのザキールさんにも、今日中に必ず病院まで連れて行くように伝え、僕らはそのテントを出た。眼前には途方もない瓦礫の山が広がっている。しかし、瓦礫に圧倒されていても、状況は何一つ分からないし、変わらない。人の話に耳を傾けなければ。他にけが人は?特に、一家を支える働き手のけが人はいないか? (続く)
 
 
 
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/04/06 02:58

破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その3)

 ダッカから約150キロ南東に離れたノアカリ県に入った僕は、現地の水先案内人であるGhandhi Asram Trustのナバ・クマールさん、アシムさんとともに、ラジゴンジ・ユニオンのアランディノゴル村へと向かった。途中すれ違うのは青々とした水田、学校帰りの子供たちの楽しげな笑顔、茶屋で井戸端会議に花を咲かすおじさんたち・・・この地で狂気と暴力が発生したとはとても信じられない風景ばかりだった。

 田舎道をしばらく行くと見覚えのある橋に目が留まった。この橋を渡るとアランディノゴル村だ。村の入り口には無残に破壊されたヒンドゥーの神々の像を収めた小屋がある。寺院を過ぎると1-2分もしないうちに、焼けた木々の下、トタンで作った掘っ立て小屋が並ぶ集落が現れる。ここが、攻撃されたヒンドゥ教徒の人々が細々と暮らすコミュニティだ。


  • 偏狭な過激派によって生活の基盤を全て破壊されたヒンドゥー教徒のコミュニティ支援に至る経緯については、下記記事をご覧下さい。

   『破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その1)
   『破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その2)



 家の基礎にするための泥をかごに入れて運んでいた見覚えのある若者が、僕に気付いて駆け寄ってきてくれた。「また来たよ、覚えているかい?」とベンガル語で声をかけると

 「もちろんですよ。シャゴレル・ボロバイ!!会えて嬉しい。」

と満面の笑みで応えてくれた。彼は今年二十歳になったビカッシュ君。ノアカリ大学で生物学を学ぶ2年生だが、今回の人災で教科書やノートを全て焼かれてしまい、また、家の修復作業にも忙しく、事件以来大学に行けていないという。教科書を買い揃えるのに5,000タカ程度は必要だが、当然そんなお金は彼の家族にない。このコミュニティには、彼のような大学生が他に2人いるらしい。

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  ~ノアカリ大学で生物学を学ぶビカッシュ・チョンドロ・ダッシュ君。14歳の弟ジョイデブ君とともに、家の修復の手伝いをしていた~

 ちなみに、僕の名前、“洋一郎”は、初対面のバングラデシュの農村の人々にはなかなか覚えてもらえない。そこで、ベンガル語で「大洋」を意味する「シャゴール」と、「一郎(長男)」を意味する「ボロバイ」を合わせて、「僕の名前をベンガル語に訳すと、“シャゴレル・ボロバイ(海の兄貴)”だよ」とベンガル語で自己紹介すると、老若男女に大いに受けて、すぐに名前を覚えてもらえるのだ(その代わり、本当の名前が定着することは無いのだが・・・)。

 村には、政府が配給したトタンや、一人当たり4,000タカの給付金に加え、今回僕を案内してくれているGhandhi Asram Trustや赤新月社(Red Crescent Societies:イスラム社会で活動する赤十字社の姉妹組織)等のNGOが、当座必要な食料などの生活必需品を現物で寄付しているため、飢えをしのぐことは出来ているようだ。昼ごはんを準備中のおばさんは、調理用のなべ、火をつけるためのマッチや燃料なども支給されたと話してくれた。   
 
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 前回訪問した際にもこの集落で支援活動をしていたムスリムの女性、シャイーンさんとも再会。

 「元気かい?今日は一人で来たんだね。私の家はここから歩いて5分くらいのところだから、毎日通って、手伝いをしているんだ。」

と相変わらずの明るい大声。シャイーンさんのカラカラとした笑い声がコミュニティに響くと、雰囲気も少し明るくなる。 今回の事件で心を痛めているムスリムはシャイーンさんだけではない。ムスリムの教えを大切にするダッカの大学生たちがそれぞれお金を出し合って集めた10万タカを攻撃されたヒンドゥー・コミュニティに寄付したという話も聞く。一連の事件は、多数派ムスリムによる少数派のヒンドゥー教徒に対する攻撃では決してない。バングラデシュの国としての一体感、宗教や文化の違いを超えた調和を揺るがそうとする一部の指導者と、それに盲従する暴徒がもたらしたものなのだ。

 僕がアランディノゴル村を前回訪問したのは3月8日。その際、政府からの給付金をもらい損ねていた家庭5軒に対してそれぞれ5,000タカずつの支援を手渡した。まずは、その家庭を訪問し、先日提供したお金がどのように使われているかを尋ねると、一枚900タカのトタンや、ドア(4-5,000タカ程度)といった家の資材に使っていたケースが多かった

 もうすぐジョールが来るから、今の状態では小屋がすぐに壊れてしまう。政府から配給されたトタンだけでは足りなかったので、支援を頂いて助かりました。」

と語ってくれたのは、前回の記事でも登場したお母さんルンパさんだ。ノアカリを含むバングラデシュの多くの地域では、毎年乾季が終わる4月の中下旬頃、ジョールと呼ばれる猛烈な風雨と雷を伴う嵐がやってくる。多くのバングラデシュ人にとってジョールは、半年以上待ち焦がれた雨をもたらす恵みだが、それは雨風をしのぐ家があっての話だ。掘っ立て小屋ともいえない今の状態から一刻も早く脱却しなければ、赤ちゃんや老人などの命に関わる。 

  他のご家庭の話を聴いて回ると、家族が病気になったが薬を買う現金が無い、燃えてしまった教科書を買わなければならない、今まで職場までの足として使っていた自転車が燃やされてしまった一方で現金が無いので、職場に復帰できないなどなど、さまざまな声が聞こえてくる。

 さて、

 友人や同僚から預かった支援金のうち、今日持ってきたのは9万タカ(約9万円)。これをどう配分するか?一通りコミュニティの人々の声を聞いた後、Ghandhi Asram Trustのアシムさん、ナバ・クマールさんとともに、地面に座り込んで、配分方法について相談をしてみた。
  
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 「実はこの前、政府からの給付金をもらいそびれた5家庭に対して5,000タカをお渡しするとき結構大変だったんです。『うちは家族の数が多いのにこれしかもらっていない』とか、『旦那が失業している』とか、『家族のメンバーに障がい者がいる』とか、それぞれ大変な事情があって、全部に耳を傾けながら『正しく、平等な配分って何だろう』と考えていたら、混乱してしまって・・・」

 「イケダさんの悩みはよく分かります。実際、我々もドイツの方から頂いた10万タカの寄付の使途を考える際に悩みました。確かに彼らは今、切実に現金を必要としていますが、全家族に対して同額ずつ渡していくと、薄く広い配分になってしまい、結局消耗品にしか使えない額になってしまう。しかも、各家庭の人数や被害額も違うので、均等配分は必ずしも「平等」を意味しません。それに、お金を渡すことで、彼らが働く意欲をそいでしまうかもしれない。この点にも注意が必要でしょう。」

 被災者名簿を繰りながら悩みを共有してくれたアシムさんに続いて、マネージャーのナバ・クマールさんはこんなアドバイスをくれた。
  
  「我々には当座使える支援金は10万タカしか無かったので、悩んだ末に、コミュニティの皆が使う水洗の清潔なトイレの設置に使うことに決めたのです。 一案ですが、例えば教科書が無くて困っていた学生がいたでしょう。教科書はお金が無くては買えない将来の投資です。彼らに教科書代だといって、渡してみるのもいいかもしれません。あとは、我々が作った被災者名簿を見れば、子供の数や事件発生前の収入が分かるので、この中から、イケダさんが特に優先的に資金をお渡しするべきだと考える、脆弱な家庭や超貧困家庭に対して、皆さんからの支援をお渡ししてはどうでしょう。」


  なるほど、教科書や教育費に使うようにお願いをして、その使い手である学生に直接渡すというのは一案だ。どうせこれから何度も来るのだから確認も出来る。あとは、もっとも貧困な家庭の見極めか・・・僕は被害者の名前や収入、職業、そして被害額が丁寧に記されたリストのページを繰りながら考えていた。

 「まぁ、そんなに一生懸命悩まなくても・・・我々からも、これはまったくの個人的な善意であって、政府がやるように皆一律という訳ではないんだ、という事情や、イケダさんのお考えをしっかり彼らに伝えますから。それに、イケダさんがきてくれているだけで皆ハッピーなんですから(笑)。」

 ナバ・クマールさんの言葉に背中を押されて、僕は腰の辺りから、皆の気持ちが詰まった分厚い封筒を取り出した。まずは教科書を必要としている大学生3人だ。一人ひとりに声をかけながら、5000タカずつを手渡していく。 
 
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 ~ ノアカリ大学の3年生、ノクール・ チョンドラ・ダシュ君。「このお金は、バングラデシュの将来を気遣う大勢の友人たちからの気持ちだ。これで教科書を買って、一生懸命勉強してほしい。バングラデシュの将来を創るのは、君たち大学生だ」とベンガル語で伝えると、まっすぐな瞳で、「わかりました。次に来たときに、買った教科書を見て下さい。僕らの大学にも来て下さい」と応じてくれた。~

 次に訪問したのは、今年70歳になるおばあちゃん、ビシュヌ・ラニ・ダシュさんのご一家だ。

 ビシュヌさんは夫の先立たれ現在3人息子、3人娘と暮らしている。子供たちはもう20代、30代と十分に大人なのだが困った事に一人も結婚していない。訳を尋ねると、「3人娘を嫁に出すのに必要なダウリ(結婚持参金)を支払えない」のだという。いくら必要かとたずねると「20-30万タカ」という法外な金額。一方、3人息子たちの状況はというと、長男のオジョンドルさんは病院の清掃員の仕事で月給が2,500タカ、次男は街の散髪屋で働いており月給2,000タカ、三男も清掃員で月給2,500タカと、3人足しても7,000タカ。3人息子がそろいもそろって結婚しないのは、「自分が結婚したら妻と子供の面倒を見なければならなくなり、姉・妹・そして老いた母の面倒を見切れなくなってしまうから」という理由。

 収入は少ないが家族思いの7人がつつましく暮らしていた家は、30年前、ビシュヌさんの旦那さんが若かった頃に建てたもので、以来、少しずつ家財道具を買い揃え、それなりに住み心地の良い家だったという。それが、狂信的な無法者による攻撃で、全てが灰になってしまったのだ。実り豊かだった家の裏のマンゴーの木も、炎に飲まれて今は黒焦げの無残な姿に変わってしまった。 
 
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   「ビシュヌさん、このお金、あなたとあなたの家族のことを心配する、バングラデシュの、そして世界中の友達から預かった気持ちです。皆、あなたのことを大切に思っています。一日でも早く、元の暮らしが戻ることを祈っています。このお金を家族の幸せのために使って下さい。」

 ビシュヌさんに手渡すと、彼女は「どうか、あなたと、友人の皆さんに祝福がありますように」とささやきながら、その細い手で、僕の頭を優しく撫でてくれた。年老いた母の目には、涙があふれていた。

 他に5歳になる一人息子シマント君と暮らす未亡人プリティさんのご一家、そして耳と喉に障がいを持つショミール・チャンドラさんとその奥さん、息子のご一家に2万タカずつ、ご夫婦と小学校に通う二人娘と高校生の一人息子のビマル・チョンドルさんのご一家に1万タカ、そして一月3,500タカの年金暮らしのマヤ・ラニさご夫婦に5,000タカをお渡しし、とりあえず、“腰の重み”はなくなった。

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   ~  ビマルさんご一家のお母さん、ショロショリティさん。5歳のティアラちゃん、11歳のディーパちゃん、そして16歳のドロン君の3人の子供を抱えたこれからの生活に不安は尽きない。泣き崩れる彼女を前に、長男のドロン君に「今は本当に大変だろうけど、君は長男なんだから。強い一人息子として、妹たちとお母さんを支えなければね。」と伝えると、唇をかみ締めながら強くうなづいていた姿に印象付けられた。~
 
 30度を超える気温の中、ファンも付いていないトタンの掘っ立て小屋は蒸し風呂のような暑さだ。額からは汗の粒が間断なく零れ落ち、土の床に染みを残していく。「腹も減っただろうし、そろそろ引き上げましょう」と声をかけてくれたアシムさんに促されて村を出ようとすると、村の人々が、「何もないけど、何か食べていって欲しい」と手を引っ張ってくる。僕にあげるものがあったら子供やお年寄りにあげてくれと伝えてもまったく聞き入れてもらえない。という訳で、頂いたココナッツのジュースを遠慮なく一気飲み。カラカラに乾いた喉にさわやかなココナツの果汁が染み渡っていく。

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 ランチというには遅すぎる食事を済ませた後、アシムさん、ナバ・クマールさんと固い握手を交わしてノアカリを後にした。夕食の準備のために買い物に出る人々で街道沿いの市場は熱気に満ち、人々が群がるドカン(雑貨屋)は、夕日に照らされた長い影を、乾燥した街路に落としている。次第に深い藍色に染まっていく空を眺めながら、僕は、ノアカリで出会った人々の表情、交わした言葉、その時生じた心の動きを一つ一つ思い出していた。

 残念ながら、いつの時代になっても、暴力、偏見、差別は人々の心の中から無くならない。僕の心のどこかにも、そういう悪魔が巣食っているだろう。人間が本質的に持つ負の感情が、政治的・経済的な動機と結びついて扇動された時、マイノリティへの攻撃という人災が発生する。そのような事件は歴史を振り返り、地球儀を回して見れば山ほど見つかり、また日本だって、その例外ではない。

 でも、天災や疫病と違って、こうした事件は人間が起こすものだから、その解決も人間に委ねられているはずだ。人間が右脳を使って生み出す共感力や想像力を軸に、左脳を使って作り出した例えばウェブ等の新しい技術を使いこなして、自身を取り巻く様々な壁を乗り越えていけば、一人ひとりが問題を解決する主体になれるはずだ

 今日、僕がアラディノゴル村の人々に届けたのは、生活を再建するための元手であると同時に、言われのない暴力に突然襲われた人々の痛みに対する共感であり、多様性や異なる価値観への寛容さを大切にする想いだ。そんな気持ちを僕に預けてくれた友人たちと、アラディノゴル村の人々とは、それぞれの生涯を通じて、直接出会うことは多分ないだろう。でも、僕が今、バングラデシュのローカル・バスで揺られながら見上げている夜空と、東京やワシントンで見える空はつながっている。そして、身の回りにある様々な壁や物理的な距離の存在にもかかわらず、ひとつの空の下で、人々も、実はつながっている。そんなつながりを少しでも広げ深めるお手伝いをするメッセンジャーとして、僕はまた、人々のもとへと向かいたい。

 ダッカの我が家にたどり着くと、時刻は午前零時を過ぎていた。長くて深い一日の幕を、抗い難い眠気と心地よい疲れが、すぐに下ろしてくれた。

バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(2) | トラックバック:(0) | 2013/03/31 05:51
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