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国民国家は何によって結びつき、何によって引き裂かれるのか?(その2)

 独立以来最高潮に達しているバングラデシュの高揚感、一体感、そして緊張感の背景には、「戦犯問題」という名のパンドラの箱がある。そして、この問題を理解するには、今から40年前、1971年のパキスタンとの独立戦争時にまで時計の針を戻さなければならない。
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 ~ダッカ市の中心部、シャハバグ広場を埋め尽くし、座り込みの抗議行動を続ける人々。2月6日に始まった抗議プログラムは今日で10日目を迎えたが、収まるどころか、勢いを増しているように見える~

 当時、東パキスタンとして、遠くインドを隔てた西パキスタンの管轄下にあり、母国ベンガル語すら奪われようとしていたベンガル人は、言語の自由、そして独立を勝ち取るべく蜂起した。戦闘は1971年3月26日、初代大統領となるボンゴ・ボンドゥ(ベンガルの友の意味)ムジウル・ラーマン(現ハシナ首相の父)によるバングラデシュ建国を宣言する演説で火蓋が切られ、12月16日にインドの支援も受けたバングラデシュ側の勝利に終わった。なお、バングラデシュでは2月21日は、ベンガル語を守るためにパキスタン軍に立ち向かい銃殺された学生たちを悼む「International Mother Language Day」として、3月26日は「Independent Day」として、そして12月16日は「Victory Day」として、それぞれ国民の祝日とされている。

   Shahbagh13
 ~人々が抗議プログラムを続けるShabagh交差点に掲げられたボンゴ・ボンドゥの演説と、パキスタン軍の蛮行を描いたパネル~

 民族の命運をかけた9ヶ月にわたる凄惨な戦闘を勝利に導いたのは「ムクティ・バヒニ(ベンガル語で“フリーダム・ファイター”の意味)」と呼ばれる義勇軍だった。今でも、有力な政治家や外交官、そして実業家には「ムクティ・バヒニ」が多い(事実はよく分からないが、そう名乗る人が多い)。
 
 一方、独立戦争を通じて「ラザカー」の汚名を着ることになった者もいた。ラザカーとは、もともと「志願兵」を意味するウルドゥ語(パキスタンの公用語)であり、独立戦争後にベンガル語で「裏切り者」を意味する言葉となった

 「ラザカー」は独立戦争中、バングラデシュにおいて「志願兵」としてパキスタン側に加担し、様々な情報をパキスタン軍に与えたほか、独立戦争末期には、敗戦の色を濃くしたパキスタン軍が独立後のバングラデシュの再建を遅らせるためになした蛮行の数々、即ち、知識人を捕らえ次々と虐殺した事件、あるいは村々の無辜の民を殺し、多くの女性たちを陵辱した事件、これらに加担していたとされる。
    
   知識人の慰霊碑
 ~ダッカ市の南部、ブリコンガ川のほとりにたたずむ虐殺された知識人の慰霊碑。独立戦争末期、パキスタン軍によってこの場所に連行されたベンガルの知識人は一斉に射殺され、その遺体は無造作に川に投げ込まれた。~

 そして、「ラザカー」を指揮していたのが、イスラム教色の濃い政治グループ「バングラデシュ・ジャマティ・イスラム党(Bangladesh Jamaat-e-Islami)」だった。バングラデシュの中では比較的厳格にイスラムの教えを実践し、政治とイスラム教の融合を思想信条とするジャマティ・イスラム党は、独立戦争前から、ベンガル人のパキスタンからの独立に懐疑的で、「統合されたイスラム国家としての東西一つのパキスタンの維持」を支持する立場をとっていた。歴史に「If」はないが、もし、「ラザカー(志願兵)」の支援を受けたパキスタン軍が、ベンガル人フリーダム・ファイターズを駆逐して勝利し、「統合されたイスラム国家としての東西一つのパキスタン」が維持されていたら、彼らはその後、東パキスタン(現在のバングラデシュ)における支配階級になったかもしれない。しかし、歴史は彼らに「ラザカー(裏切り者)」という生涯拭い去れることの無い十字架を背負わせたのだった。

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  ~シャハバグの目抜き通りに掲げられた「ラザカーを吊るし首に!」と訴えるポスター~

 多くの同胞の血が流れ、途方も無い苦しみを乗り越えた末に、ベンガル人は「バングラデシュ(ベンガル人の国の意味)」という名の国民国家を立ち上げた。ちなみに、バングラデシュの国旗は日の丸に似ているが、そのデザインは、緑豊かなベンガルの大地が、独立戦争で流された赤い血で染まっている様子を表している。
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 ~Shabaghの目抜き通りで国旗を売り歩く人。緑と赤はベンガルの色であり、その国旗は独立戦争勝利、ベンガル民族統合の象徴だ~
 
 こうした独立戦争をめぐる物語の主人公だった当時二十代の若者たちは、今日、60歳前後となってバングラデシュの社会・経済・政治で中心的な役割を担っている。つまり、独立戦争をめぐる様々な逸話やストーリーは、バングラデシュの現役世代の多くが、直接目にした出来事、聞いた音や声、感じた匂い、そして感情の動き等をはっきりと思い出せる時代の話なのだ。


 時計の針を2012年1月11日まで戻す。 

    この日、ダッカで90歳の老人が逮捕された。老人の名はGhulam Azam(グラム・アザム)。独立戦争勃発直前から2000年まで40年間、上記ジャマティ・イスラム党をリーダーとして率いてきた政治家であり、イスラム聖職者だ。長老のグラム・アザムの他、現役のリーダーであるAbdul Kader Mollah(アブドゥル・カデール・モラ)他、約10名のジャマティ・イスラム党の指導者層も次々と逮捕された。彼らは、40年前の独立戦争における人道に対する罪-殺人・強盗・強姦・集団虐殺-により、法の裁きを受けることとなったのだ。

   そして2013年2月5日、バングラデシュの全国民が注目する中、ジャマティ・イスラム党の現在の指導者、アブドゥル・カデール・モラに下った判決は、有罪、そして「無期懲役」の刑罰だった。

 「死刑じゃないのか!?」
 「納得がいかない!」
 「死刑判決が下るまで、皆でともに徹底抗議をしよう!」
 「バングラデシュに正義を!ラザカーに死を!!」 

 最初に声を上げたのは、Blogger & Online Activiest Networkに参加する若者達だった。ダッカのシャハバグ広場に陣取った彼らの様子や声は、ブログ、フェイスブック、各種のインターネット掲示板、携帯電話のショート・メッセージ等を通じて瞬く間に国民、特に大学生の間に浸透。以後、日を追うごとに、シャハバグ広場に集う人の数は激増を続け、数万人の規模に達したことは前回の記事で述べた。10日間連続で抗議プログラムが続くシャハバグ広場には、ステージが幾つも立てられ、人々がそれぞれの思いを歌や劇、演説で発信している。大量の国旗がはためく人の海の中で、ここぞとばかり儲けてやろうという商魂逞しい人々が道脇に様々な出店を出し、会場はさながら、お祭りのような様相を呈している。

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~シャハバグ広場のあちこちの地面に花で描かれたバングラデシュの国土。こうした模様をつくるための花を売る出店も道脇には多く見られる。~

 一方、多くのリーダーを失ったジャマティ・イスラム党の党員達、そしてダッカ大学、チッタゴン大学、ラッシャヒ大学等、主要大学に拠点を持つジャマティ・イスラム学生連合は、一連の逮捕・拘留、そして裁判は不当として、指導者全員の即刻無罪放免を求めてホルタルや抗議デモを断続的に実施。その激しさがエスカレートしていることは、前回の記事で紹介したとおりだ。

 これがバングラデシュで現在進行中の騒動の大まかな背景だ。しかし、数々の疑問が浮かんでくる。そもそも、なぜ「今」このような騒動が発生しているのだろうか?「戦犯問題」は過去40年、棚晒しにされてきたのだろうか?何故、現与党は突然ジャマティ・イスラム党のリーダー達の逮捕に踏み切ったのか?

 こうした疑問に光を当てることで、この問題が持つ複雑さと、バングラデシュが抱える政治の問題、そしてバングラデシュが今後国を前に進めていく上で抱え得る大きなリスクが浮かび上がってくる(続く)。
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バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/02/15 16:15
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