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バングラデシュが教えてくれた大切なコト⑥

   縫製工場で働く女性

 「この国が好きか、ですって?それはそうでしょう。ここに住んでいるんですから。他に行くところなんてないんですから。」


ロシュンアラさんは、明るい笑顔で応えた。彼女と出会ったのは、オールド・ダッカの一角にある雑居ビルの3階、むせ返るような湿気と暑さが支配する縫製工場だった。床には近い将来ジーンズとなって国内外の市場に出て行く青色の布が無造作に積み上がっている。所狭しと並ぶミシンの列が、天井のファンとともに、折からの停電で所在無げに沈黙している。柔らかい彼女の表情と声色は、過酷に見える工場の環境と、あまりに明瞭なコントラストを描きながら、僕の心に刻まれた。

 ベンガル人が、事あるごとに口ずさむ、ことばがある。

 「インシャー・アラー」

 「全てはアラーの神の思し召し」との意味を持つというこの言葉。日本語に敢えて訳せば「成るように成る」とでも言うのだろうか。

 「インシャー・アラー」はありとあらゆる場面で登場する。

 会議が首尾よくまとまる様子に「インシャー・アラー」。パンクしたタイヤを前に「インシャー・アラー」。子供の成績が上がれば「インシャー・アラー」。約束の時間に遅れそうでも「インシャー・アラー」。結婚式のその日まで自らの結婚相手の男性の顔すら拝めなくとも「インシャー・アラー」

 「インシャー・アラー」は時として感謝に、時として行動を改めぬことの言い訳に使われる。用途無限の「インシャー・アラー」だが、その背景には「目の前の現実を受け入れる」という心の姿勢があるように思う。現実を受け入れる多くのベンガル人は、不条理な世の中に心を腐らせることなく、拡大する格差を前に、羨望という名の暗い感情に支配されることなく、自分が身を置くその環境で、最大限楽しむ術を、自然と身に着けているように感じられる。


 自分はどうか。

 これまで、自分自身や自己を取り巻く現状を変えるべく目標を立て、それを実現することを自らの生きる糧としてきた僕にとって、それを成長や幸せと定義してきた自分にとって、「受け入れる」という言葉は、妥協、安逸、諦念といったことばと同義で、後ろ向きな「受け入れ難い」発想だった。

 そんな自分が、世銀という新しい組織、バングラデシュという未知の国で、余りにも思い通り事が運ばない現実を前に、七転八倒を続けた一年を経た今、見えているのは、「受け入れる」とは、積極的で能動的な行為であるという気付きだ。

 「受け入れる」こと。

 それは、自分を相対化する行為だ。自分中心に物事を捉えているうちは、他者や環境を受け入れることは出来ない。

 それは、透徹した眼差しで、対象や状況を見据える行為だ。他者や環境について、「良い/悪い」の判断に飛びつく前に、好奇心を持って、ありのままを観察する姿勢だ。

 それは、今、自分が関わっている対象、自身が置かれた状況と、正面から向き合う姿勢だ。眼前に数多用意されているかに見える、あるいは、過去の自分が手にし得た選択肢に心を奪われているうちは、目の前の現実を受け入れることはできない。

 他者、環境、あるいは現実を「受け入れる」と、ある豊かさが眼前に広がる。それは感謝、好奇心、学びの意欲、あるいは、愛情。一時、事が思い通り運ばなくても、焦らず腐らず、時々の状況を楽しむ心の余裕。そして、気付くと、他者や環境に、自分自身が受け入れられている、という現象だ。そうなって初めて、今までどうにも思い通りにならなかったその対象と、新しい方向に向けて、ともに動き出している自分を認めることだろう。

 自我の強過ぎる自分に「受け入れる」ことの意味を教えてくれた、バングラデシュでの時間に感謝しつつ、この国で2度目の8月が過ぎていく。
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バングラデシュが教えてくれた大切なコト | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2012/08/31 14:20
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