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破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その7)

 バングラデシュ東部のブラモンバリア県を大型の竜巻が襲ったのが3月22日。その一週間後の3月29日、4月26日・27日、5月17日の計4回、友人や先輩から預かった支援金を手に、被災地に入った。二人三脚で活動を展開してくれたのが、被災した村に実家がある銀行員モニールさんであったこと、彼との出会いがまったくの偶然であったことはこれまでの記事で触れた。

 ■ 竜巻被災地の支援に入った経緯と3月29日の活動の様子については、下記記事を参照下さい。
    破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その4)
    破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その5)

 過激派の襲撃を受けたノアカリのヒンドゥー集落に比べると、ブラモンバリアは被害を受けた地域の広さ、被災者の数の多さから、限られた資源の配分は常に悩ましく、毎回、去り際に何となく心にわだかまりが残るような気持ちにさせられた。それでも、やっぱりこの村に関わって良かったと思えたのは、冷静さを保ちながらも情熱的且つ献身的に、自分が生まれ育った村の復興のために力を貸してくれたモニールさんの存在が大きい。そしてもちろん、家族や家財を失いながらも、わずかな元手で怪我や苦難を乗り越え、前進する姿勢を見せてくれている村の人たちの姿も。

 たとえば、18歳の大黒柱、ジュルハッシュ君を覚えているだろうか?知的障がいを抱える父に代わり、大工仕事で家計を支えていた、そして竜巻に巻き込まれて瀕死の重傷を負い、テントで寝たきりになっていた(さらに、重症にもかかわらずモスクに連れて行かれていた)あの青年だ。

 4月末にブラモンバリアを訪問した際、ジュルハッシュと再会した。思った以上にすらりとした長身の彼は、まだ首の後ろに痛みがあると訴えながらも、見違えて元気になっていた。あの時手渡した資金で必要な手当てを郡病院で受けたそうだ。医師の話では、あと1ヶ月ほど安静にしていれば、大工仕事に復帰することも出来そうだという。 

  bramonbharia 2-1 
 
 あるいは、ダナ・ミヤさんと、ダッカの病院に入院していた彼の奥さんと娘さんはどうなっただろうか?18年間サウジアラビアで出稼ぎしたお金で立てた家と、購入したばかりのオートリキシャを竜巻で壊された挙句、末の娘を亡くし、奥さんと長女も重傷を負ってダッカの病院に担ぎ込まれたダナ・ミヤさんの絶望的な表情は忘れることが出来ない。

 しかし、彼も、そして彼の家族も強かった。お渡しした2万タカを使ってオートリキシャを修理したダナ・ミヤさんは、テント暮らしを続けながら、早速村の周辺で仕事にいそしんでいる。娘さんはまだ入院中だが容態は落ち着いたという。そして、奥さんは無事退院。顔の傷が痛々しかったが、笑顔の美しい人だった。

 「修理したオートリキシャを見せて下さい」と頼むと、嬉しそうに新品の車を見せてくれた。「村の周辺を案内するから、後ろに乗って!」という誘いには、「いやいや、燃料代もかかるでしょうし、仕事のためにとっておいてください」と丁寧に断ると、とても残念そう。彼の家は、まだトタン板と柱だけの掘っ立て小屋で、家財は未だ何もない。重篤な状況ではないとはいえ、入院中の娘さんのことも気がかりだろう。しかし、再会したダナ・ミヤさんの口からは、更なる助けを求める声はまったく聞かれなかった。前向きで自信に満ちた表情で「では、また仕事に行ってくる」と言ってオート・リキシャのエンジンをかける彼の後姿は、とても清々しかった。

  bramonbharia 2-2

 被災後1週間目に訪問した際には瓦礫の山だった村も、今では、夏の陽光がまぶしく反射する新品のトタン屋根が並んでいる。政府の支援に加え、大手財閥のボシュンダラ・グループやモネム・グループが、CSR(Corporate Social Responsiblity)活動の一環として、被災者の住居再建のために、まとまった資材と工夫を雇うための資金を被災地に提供していることもあり、復興は思ったよりも速いスピードで進んでいるように見える。 

  bramonbharia 2-6

 竜巻の被災から2ヶ月。ブラモンバリアの被災地は、被災者が明日必要な食の確保と負傷者の手当てという「緊急支援のフェーズ」を超え、雨風をしのげプライバシーを確保できる「住」の建設のための「復興のフェーズ」の最中にあり、さらには、被災者自身がかつてのように仕事に就き家族を養っていく「自立再建のフェーズ」に移りつつある家庭もいる。ダナ・ミヤさんのケースは、外部からの支援をてこに、上記フェーズ1からフェーズ3にスムーズに移行できた好例といえるだろう。
 
 しかし、多くの家庭の状況を見ると、フェーズ3への以降は容易ではなさそうだ。

 まず、 村の多くの旦那衆は農家(他人の農地で仕事をして日当をもらう、いわゆる“土地なし農家”)やリキシャ引き、あるいは大工などの肉体労働に従事していたところ、怪我が完治しなければ、こうした仕事に戻ることは出来ない。しかし、まとまったお金が手元にないため、定期的に医師の元に通い十分な薬を得ることができず、回復が遅れる。なかなか体が回復しないため、仕事に復帰できない。仕事に復帰できないからお金が入らず、回復がまた遅れる・・・という悪循環に嵌っている。 

 5人の子供に恵まれたジアウル・イスラムさんは、別な悩みを抱える。彼はブラモンバリアとダッカなどを結ぶ長距離バスの車掌をしていた。幸い家族そろって怪我はなかったが、家は全壊の被害を受けた。修理にはまとまった資金が必要だが、そのために仕事に出ようとすると2-3日家を空けなければならない。しかし、鍵すらまともにかけられない我が家(我が掘っ立て小屋)に幼い子供たちと妻だけを残しておくのは心配だし、自分が家を空けていたら、家の修復は進まない。家の修復が進まないから長距離バスの車掌仕事に復帰できない。これまた悪循環だ
 
 あるいは、もともと家族の誰かが糖尿病などの慢性疾患を患っていた場合も厳しい。仮にある程度の援助資金を受け取っても、それは薬代に消えてしまい、本人と家族がフェーズ1→2→3に移行していくための力にはなりにくいからだ。
 
 こういう問題を抱える家庭が多いために、援助資金へのニーズは一向になくならない。事実、訪問回数を重ねるうちに、すっかり顔を村中の人々に覚えられ、村に入った途端に、それぞれの窮状を訴える陳情の人だかりが出来る。しかし、これらに全て応えると、各人が手にするお金は、日常品の消費で消えてしまう程度となってしまう。また、「彼が来るとお金がもらえる」という期待が人々の間に定着してしまったとしたら、僕の存在はむしろ、「自立再建」のフェーズに人々が移行するための足かせになってしまう可能性すらある。

 4回目の被災地訪問の際に、「広く薄く」の配分ではなく、村で雑貨屋を経営した経験のある2人の主人、シャハラム・ミヤさんとジアウル・イスラムさんのみに対して、ビジネス再開のためのシーズ・マネーとして3万タカという金額を手渡すことにしたのは、こうした問題意識が高まったためだ。彼らのビジネスがうまく軌道に乗り、雑貨屋の手伝いのような形で雇用を生むことになれば、彼らの家族を超えて、「自立再建」のフェーズの後押しになるだろう。 

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   ~長距離バスの車掌から、かつて営んでいた雑貨屋経営をはじめるためのスタート・アップ資金3万タカをお渡ししたジアウル・イスラムさんのご一家。長男ソフィック君(中央)に抱かれた末っ子のアブドゥラ(2歳)は愛嬌いっぱいのアイドル的存在だ。ジアウルさんの商才と家族を思う気持ちに賭けた3万タカが大きな成果を生まれるよう、願って止まない。~


 色々悩ましいことが多かったが、とにかく、過激派による襲撃、竜巻の発生からそれぞれ約3ヶ月、2ヶ月が経過し、皆さんから個人的にお預かりした志、総額160万5,550円相当を、現金、あるいは「Happy Box」やトイレのような現物支給の形で、無事、現地の人々の手に全額届けることができた(寄付を頂いた皆さんには、別途メールにて収支報告をお送り致します)。

 これだけの額の現金を他人から直接預かり、それを物理的に(腰巻に忍ばせて)現場に運び、コミュニティを歩き回り人の話を聞き回って状況を観察・把握し、困窮した人々の前で“札束”を取り出し、手渡し、さらに、数ヶ月にわたってその土地や人々を直接定点観測をした経験は、世銀や財務省の仕事では無いし、人生でも初めてのことだった。最初はブラモンバリアやノアカリがどんな地域なのか、被害の状況がどうなっているのか、皆目検討はついていなかった。取り敢えず、身一つで飛び込んで走りながら考えたというのが正直なところだ。

 でも、だからこそ、世銀や財務省のような場所で仕事をしていたのでは、(知識としては読んだり聞いたりしたことはあっても)現実的な肌感覚として、自分の脳とハートに刻み込まれることはなかったであろう、様々な教訓や気付きを得ることが出来たと思う。それらを、個人の備忘録として列挙すると、たとえばこんな感じになろう。

1.近すぎず遠すぎないパートナーを如何に見つけるか 
 
 支援の対象となる人々やコミュニティとの長年にわたる接点を持ちながらも、現地の人間関係からは一定の距離を保っているパートナーを得ることが出来るかは、プロジェクトや支援を効果的、効率的に実施するうえで決定的に重要な要素であることが、身をもって分かった。

 実際、自分ひとりで飛び込んでも、まずその被害の大きさに圧倒され、大勢の被災者に囲まれて身動きが取れなくなるし、何が本当で何が誇張された話なのか、見当のつけようがない。ノアカリの村では、破壊された家の前で涙ながらに窮状を訴えてきた中年の女性がいたが、実はその一家は集落一の金持ちであり、集落の外に別途マンションを持っていたのだ。こうしたことはGandhi Asram Trustのスタッフがいてくれたからこそ、分かったことだ。また、ブラモンバリアの被災地では、同行してくれたモニールさんの助けがなければ、病院に担ぎ込まれた重病人のいる、例えばダナ・ミヤさんのような家庭について、支援の対象に加えることは出来なかったかもしれない。その意味で、今回幸運だったのは、ノアカリではGandhi Asram、ブラモンバリアではモニールさんという、その地と長年の接点のある組織・個人をパートナーとして得ることができたことだろう。

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   ~ ノアカリで発生した過激派襲撃の被害にあったショロショッティさんに、石鹸を手渡す筆者 ~

 一方で、現場からのある程度の距離も、重要なのだ。たとえば、自分が支援対象の村の一員だったら、「佐藤さんの一家には30万円あげるけれど、後藤さんのお宅は5,000円」という差別化・重点化ができるだろうか?感謝よりも文句や非難を受けることのほうが多くなってしまうかもしれない。本人はそのつもりはなくても、「お前の親類や友人だから優遇したのだろう」という 誹謗中傷を受けるかもしれない。

 実際この問題は、ブラモンバリアの竜巻被災地で発生しかかっていた(というか、殆ど発生していた)。当初、村人の「陳情先」は僕だったが、モニールさんが僕の意思決定に影響を及ぼしていることはすぐに知れ、次第に「陳情先」はモニールさんのほうにシフトしていった。時には、大勢の人が彼の実家に詰め掛け、配分方法をめぐって口論になり、騒然とした雰囲気になったこともあった。 
  
    モニールさんは、現在はダッカで暮らしているとはいえ、被災地の人々とは生まれてからずっと近所づきあいがあるし、実家にはご両親が住んでいる。人々との付き合いはこれからも続くだろう。つまり、現地の生態系に組み込まれた一個人なのだ。 彼は効果的な配分方法について一生懸命考えてくれたが、やはり見ていてとても辛そうだったし、こうした状況が続けば、彼を中心に、これまでコミュニティにはなかったゆがんだ資源配分のメカニズムが出来てしまいそうな予感がした

   この点、Gandhi Asram Trustのスタッフは、 いい意味で「外部者」として、村の人々との距離を保つことが出来る立場にあった。だから、配分の差別化が必要な局面においても、彼らが個人として非難や陳情の的にはなりにくい。

 対象に対して、「冷静と情熱の間」を保つことの出来る立場にあるパートナーを見出すこと、これは、今回のような草の根の被災地支援だけでなく、たとえば新興国への直接投資といったケースでも、成否に大きな影響を及ぼす要素ではないだろうか。 
 
2.フェーズと目的と規模に応じた最適配分をどう考えるか

 資源はいつも限られている。だから出来れば有効且つ公平に使いたい。しかし、有効性と公平性が衝突するシーンから逃れることは、たいていの場合難しい

 僕自身、今回現地に行くまでは、「実際に村人に集まってもらって、彼らに決めてもらえばよい。そうすれば、重点配分にせよ、広く薄くにせよ、皆が納得いく結果が得られるだろう」と考えていた。でも、現場に現金をぶら下げて入った瞬間に、これが如何に甘い考えかだったか、思い知ることになった。

 当然のことながら、支援の対象となる人たちに自ら支援金の分配方法を決めてもらうには、対象者全員が実質的な議論ができる場と時間の設定だけでなく、議論のまとめ役の確保、意思決定方法などを含めて、参加型で決めておかねばならず、相当の時間を要する。村のどこに井戸をつくるか、という話ならともかく、災害や暴動後、速やかに原状回復を図らなければならないフェーズでは、活用できない。 
 
 結局必要だったのは、現地のパートナーとともに、個別の事例に耳を傾けつつも、対象となる人々やコミュニティがグループとして、①緊急支援(取り敢えず明日生き延びられるようにする)、②生活復興(衣食住の確保)、③自立再建(雇用の確保)のいずれの段階にあるかを見極めた上で、そのコンテキストに合致する形で、自分たちが限られた資源をもって、何を実現したいのかを明確にすることだった。 

3.一家を危機に陥れる脆弱性の元を如何に減らしていくか

 職場から家までが遠い、軽い慢性疾患がある、家がトタンなので隙間風が入る、食い扶持には困っていないけれど、肉体労働・単純作業ばかり・・・

 こうした日常的なちょっとした「不便」が、災害や事件に巻き込まれた結果、自立再建の長期間にわたる妨げになり得ることが、3ヶ月間、様々なケースを定点観測していく中で、クッキリと浮かび上がった。いざというときにアクセスできる保険制度や失業手当などの公的セーフティ・ネットを国レベルで整備・更改していくことは、途上国・先進国問わず共通の課題だ。これに加えて、個人レベル・地域レベルでの日常的な予防(防災・公衆衛生・食習慣改善)や投資(住宅投資・スキル・アップ)を促す取り組みが、個人そして地域の危機への耐久力向上に貢献するだろう。 
 
 以上7回にわたる記事で、ノアカリ・ブラモンバリアにおける個人的な活動の経緯と内容、成果と教訓について、報告をしてきた。最後まで読んでくれた人がいたら、その辛抱強さと好奇心に感謝したい。

 前回の記事の終わりに書いたとおり、僕は、今回の活動を「弱者への支援」とは位置づけていない。実際、僕が出会った人々は、確かに困ってはいたが、弱い人たちでは決してなかった。家族や家財を失ってなお、そして、酷暑や暴風雨に見舞われる中でのテント暮らしという環境において、前向きに生活再建に向かっていく姿や子供たちの屈託のない笑顔、あるいは、ひるむことなく「困っているんだからお金をくださいよ!」と迫ってくる姿を見るにつけ、少なくとも、僕よりは強い人たちに見えた。  

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 ~ プレゼントをした剣玉で遊ぶブラモンバリアの村の子供たち。すぐにコツを覚えて遊びだす子供たちの器用さには脱帽だ。~

 振り返ってみると、僕はバングラデシュにおいて「弱者」と感じた人は、実は殆どいないように思う。むしろちょっとしたことで腹をこわして熱を出してみたり、仕事がうまく回らなくてふてくされていた自分のほうが、よっぽど弱者だ。 
   
 本業の合間を縫って、右往左往を繰り返しながら、現場を往復した今回の経験、そしてバングラデシュでの時間が、僕を、僕という人間が持つ弱さを認識させることで、以前より少しばかり強くて優しい人間にさせてくれたのだとしたら、僕はこの国で出会ったすべての人たちに、深く感謝をしなければならない。(本シリーズ終わり)

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 ~ブラモンバリアの竜巻被災地へと向かう道。3月29日に撮影したこちらの写真(記事中段)と見比べていただきたい。大地に根を張り、太陽と雨を一杯浴びて生命力豊かに生き抜くバングラデシュの人、草木は、強い!~ 
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バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/05/29 18:21
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