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破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その7)

 バングラデシュ東部のブラモンバリア県を大型の竜巻が襲ったのが3月22日。その一週間後の3月29日、4月26日・27日、5月17日の計4回、友人や先輩から預かった支援金を手に、被災地に入った。二人三脚で活動を展開してくれたのが、被災した村に実家がある銀行員モニールさんであったこと、彼との出会いがまったくの偶然であったことはこれまでの記事で触れた。

 ■ 竜巻被災地の支援に入った経緯と3月29日の活動の様子については、下記記事を参照下さい。
    破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その4)
    破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その5)

 過激派の襲撃を受けたノアカリのヒンドゥー集落に比べると、ブラモンバリアは被害を受けた地域の広さ、被災者の数の多さから、限られた資源の配分は常に悩ましく、毎回、去り際に何となく心にわだかまりが残るような気持ちにさせられた。それでも、やっぱりこの村に関わって良かったと思えたのは、冷静さを保ちながらも情熱的且つ献身的に、自分が生まれ育った村の復興のために力を貸してくれたモニールさんの存在が大きい。そしてもちろん、家族や家財を失いながらも、わずかな元手で怪我や苦難を乗り越え、前進する姿勢を見せてくれている村の人たちの姿も。

 たとえば、18歳の大黒柱、ジュルハッシュ君を覚えているだろうか?知的障がいを抱える父に代わり、大工仕事で家計を支えていた、そして竜巻に巻き込まれて瀕死の重傷を負い、テントで寝たきりになっていた(さらに、重症にもかかわらずモスクに連れて行かれていた)あの青年だ。

 4月末にブラモンバリアを訪問した際、ジュルハッシュと再会した。思った以上にすらりとした長身の彼は、まだ首の後ろに痛みがあると訴えながらも、見違えて元気になっていた。あの時手渡した資金で必要な手当てを郡病院で受けたそうだ。医師の話では、あと1ヶ月ほど安静にしていれば、大工仕事に復帰することも出来そうだという。 

  bramonbharia 2-1 
 
 あるいは、ダナ・ミヤさんと、ダッカの病院に入院していた彼の奥さんと娘さんはどうなっただろうか?18年間サウジアラビアで出稼ぎしたお金で立てた家と、購入したばかりのオートリキシャを竜巻で壊された挙句、末の娘を亡くし、奥さんと長女も重傷を負ってダッカの病院に担ぎ込まれたダナ・ミヤさんの絶望的な表情は忘れることが出来ない。

 しかし、彼も、そして彼の家族も強かった。お渡しした2万タカを使ってオートリキシャを修理したダナ・ミヤさんは、テント暮らしを続けながら、早速村の周辺で仕事にいそしんでいる。娘さんはまだ入院中だが容態は落ち着いたという。そして、奥さんは無事退院。顔の傷が痛々しかったが、笑顔の美しい人だった。

 「修理したオートリキシャを見せて下さい」と頼むと、嬉しそうに新品の車を見せてくれた。「村の周辺を案内するから、後ろに乗って!」という誘いには、「いやいや、燃料代もかかるでしょうし、仕事のためにとっておいてください」と丁寧に断ると、とても残念そう。彼の家は、まだトタン板と柱だけの掘っ立て小屋で、家財は未だ何もない。重篤な状況ではないとはいえ、入院中の娘さんのことも気がかりだろう。しかし、再会したダナ・ミヤさんの口からは、更なる助けを求める声はまったく聞かれなかった。前向きで自信に満ちた表情で「では、また仕事に行ってくる」と言ってオート・リキシャのエンジンをかける彼の後姿は、とても清々しかった。

  bramonbharia 2-2

 被災後1週間目に訪問した際には瓦礫の山だった村も、今では、夏の陽光がまぶしく反射する新品のトタン屋根が並んでいる。政府の支援に加え、大手財閥のボシュンダラ・グループやモネム・グループが、CSR(Corporate Social Responsiblity)活動の一環として、被災者の住居再建のために、まとまった資材と工夫を雇うための資金を被災地に提供していることもあり、復興は思ったよりも速いスピードで進んでいるように見える。 

  bramonbharia 2-6

 竜巻の被災から2ヶ月。ブラモンバリアの被災地は、被災者が明日必要な食の確保と負傷者の手当てという「緊急支援のフェーズ」を超え、雨風をしのげプライバシーを確保できる「住」の建設のための「復興のフェーズ」の最中にあり、さらには、被災者自身がかつてのように仕事に就き家族を養っていく「自立再建のフェーズ」に移りつつある家庭もいる。ダナ・ミヤさんのケースは、外部からの支援をてこに、上記フェーズ1からフェーズ3にスムーズに移行できた好例といえるだろう。
 
 しかし、多くの家庭の状況を見ると、フェーズ3への以降は容易ではなさそうだ。

 まず、 村の多くの旦那衆は農家(他人の農地で仕事をして日当をもらう、いわゆる“土地なし農家”)やリキシャ引き、あるいは大工などの肉体労働に従事していたところ、怪我が完治しなければ、こうした仕事に戻ることは出来ない。しかし、まとまったお金が手元にないため、定期的に医師の元に通い十分な薬を得ることができず、回復が遅れる。なかなか体が回復しないため、仕事に復帰できない。仕事に復帰できないからお金が入らず、回復がまた遅れる・・・という悪循環に嵌っている。 

 5人の子供に恵まれたジアウル・イスラムさんは、別な悩みを抱える。彼はブラモンバリアとダッカなどを結ぶ長距離バスの車掌をしていた。幸い家族そろって怪我はなかったが、家は全壊の被害を受けた。修理にはまとまった資金が必要だが、そのために仕事に出ようとすると2-3日家を空けなければならない。しかし、鍵すらまともにかけられない我が家(我が掘っ立て小屋)に幼い子供たちと妻だけを残しておくのは心配だし、自分が家を空けていたら、家の修復は進まない。家の修復が進まないから長距離バスの車掌仕事に復帰できない。これまた悪循環だ
 
 あるいは、もともと家族の誰かが糖尿病などの慢性疾患を患っていた場合も厳しい。仮にある程度の援助資金を受け取っても、それは薬代に消えてしまい、本人と家族がフェーズ1→2→3に移行していくための力にはなりにくいからだ。
 
 こういう問題を抱える家庭が多いために、援助資金へのニーズは一向になくならない。事実、訪問回数を重ねるうちに、すっかり顔を村中の人々に覚えられ、村に入った途端に、それぞれの窮状を訴える陳情の人だかりが出来る。しかし、これらに全て応えると、各人が手にするお金は、日常品の消費で消えてしまう程度となってしまう。また、「彼が来るとお金がもらえる」という期待が人々の間に定着してしまったとしたら、僕の存在はむしろ、「自立再建」のフェーズに人々が移行するための足かせになってしまう可能性すらある。

 4回目の被災地訪問の際に、「広く薄く」の配分ではなく、村で雑貨屋を経営した経験のある2人の主人、シャハラム・ミヤさんとジアウル・イスラムさんのみに対して、ビジネス再開のためのシーズ・マネーとして3万タカという金額を手渡すことにしたのは、こうした問題意識が高まったためだ。彼らのビジネスがうまく軌道に乗り、雑貨屋の手伝いのような形で雇用を生むことになれば、彼らの家族を超えて、「自立再建」のフェーズの後押しになるだろう。 

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   ~長距離バスの車掌から、かつて営んでいた雑貨屋経営をはじめるためのスタート・アップ資金3万タカをお渡ししたジアウル・イスラムさんのご一家。長男ソフィック君(中央)に抱かれた末っ子のアブドゥラ(2歳)は愛嬌いっぱいのアイドル的存在だ。ジアウルさんの商才と家族を思う気持ちに賭けた3万タカが大きな成果を生まれるよう、願って止まない。~


 色々悩ましいことが多かったが、とにかく、過激派による襲撃、竜巻の発生からそれぞれ約3ヶ月、2ヶ月が経過し、皆さんから個人的にお預かりした志、総額160万5,550円相当を、現金、あるいは「Happy Box」やトイレのような現物支給の形で、無事、現地の人々の手に全額届けることができた(寄付を頂いた皆さんには、別途メールにて収支報告をお送り致します)。

 これだけの額の現金を他人から直接預かり、それを物理的に(腰巻に忍ばせて)現場に運び、コミュニティを歩き回り人の話を聞き回って状況を観察・把握し、困窮した人々の前で“札束”を取り出し、手渡し、さらに、数ヶ月にわたってその土地や人々を直接定点観測をした経験は、世銀や財務省の仕事では無いし、人生でも初めてのことだった。最初はブラモンバリアやノアカリがどんな地域なのか、被害の状況がどうなっているのか、皆目検討はついていなかった。取り敢えず、身一つで飛び込んで走りながら考えたというのが正直なところだ。

 でも、だからこそ、世銀や財務省のような場所で仕事をしていたのでは、(知識としては読んだり聞いたりしたことはあっても)現実的な肌感覚として、自分の脳とハートに刻み込まれることはなかったであろう、様々な教訓や気付きを得ることが出来たと思う。それらを、個人の備忘録として列挙すると、たとえばこんな感じになろう。

1.近すぎず遠すぎないパートナーを如何に見つけるか 
 
 支援の対象となる人々やコミュニティとの長年にわたる接点を持ちながらも、現地の人間関係からは一定の距離を保っているパートナーを得ることが出来るかは、プロジェクトや支援を効果的、効率的に実施するうえで決定的に重要な要素であることが、身をもって分かった。

 実際、自分ひとりで飛び込んでも、まずその被害の大きさに圧倒され、大勢の被災者に囲まれて身動きが取れなくなるし、何が本当で何が誇張された話なのか、見当のつけようがない。ノアカリの村では、破壊された家の前で涙ながらに窮状を訴えてきた中年の女性がいたが、実はその一家は集落一の金持ちであり、集落の外に別途マンションを持っていたのだ。こうしたことはGandhi Asram Trustのスタッフがいてくれたからこそ、分かったことだ。また、ブラモンバリアの被災地では、同行してくれたモニールさんの助けがなければ、病院に担ぎ込まれた重病人のいる、例えばダナ・ミヤさんのような家庭について、支援の対象に加えることは出来なかったかもしれない。その意味で、今回幸運だったのは、ノアカリではGandhi Asram、ブラモンバリアではモニールさんという、その地と長年の接点のある組織・個人をパートナーとして得ることができたことだろう。

 Noakhali 2-9
   ~ ノアカリで発生した過激派襲撃の被害にあったショロショッティさんに、石鹸を手渡す筆者 ~

 一方で、現場からのある程度の距離も、重要なのだ。たとえば、自分が支援対象の村の一員だったら、「佐藤さんの一家には30万円あげるけれど、後藤さんのお宅は5,000円」という差別化・重点化ができるだろうか?感謝よりも文句や非難を受けることのほうが多くなってしまうかもしれない。本人はそのつもりはなくても、「お前の親類や友人だから優遇したのだろう」という 誹謗中傷を受けるかもしれない。

 実際この問題は、ブラモンバリアの竜巻被災地で発生しかかっていた(というか、殆ど発生していた)。当初、村人の「陳情先」は僕だったが、モニールさんが僕の意思決定に影響を及ぼしていることはすぐに知れ、次第に「陳情先」はモニールさんのほうにシフトしていった。時には、大勢の人が彼の実家に詰め掛け、配分方法をめぐって口論になり、騒然とした雰囲気になったこともあった。 
  
    モニールさんは、現在はダッカで暮らしているとはいえ、被災地の人々とは生まれてからずっと近所づきあいがあるし、実家にはご両親が住んでいる。人々との付き合いはこれからも続くだろう。つまり、現地の生態系に組み込まれた一個人なのだ。 彼は効果的な配分方法について一生懸命考えてくれたが、やはり見ていてとても辛そうだったし、こうした状況が続けば、彼を中心に、これまでコミュニティにはなかったゆがんだ資源配分のメカニズムが出来てしまいそうな予感がした

   この点、Gandhi Asram Trustのスタッフは、 いい意味で「外部者」として、村の人々との距離を保つことが出来る立場にあった。だから、配分の差別化が必要な局面においても、彼らが個人として非難や陳情の的にはなりにくい。

 対象に対して、「冷静と情熱の間」を保つことの出来る立場にあるパートナーを見出すこと、これは、今回のような草の根の被災地支援だけでなく、たとえば新興国への直接投資といったケースでも、成否に大きな影響を及ぼす要素ではないだろうか。 
 
2.フェーズと目的と規模に応じた最適配分をどう考えるか

 資源はいつも限られている。だから出来れば有効且つ公平に使いたい。しかし、有効性と公平性が衝突するシーンから逃れることは、たいていの場合難しい

 僕自身、今回現地に行くまでは、「実際に村人に集まってもらって、彼らに決めてもらえばよい。そうすれば、重点配分にせよ、広く薄くにせよ、皆が納得いく結果が得られるだろう」と考えていた。でも、現場に現金をぶら下げて入った瞬間に、これが如何に甘い考えかだったか、思い知ることになった。

 当然のことながら、支援の対象となる人たちに自ら支援金の分配方法を決めてもらうには、対象者全員が実質的な議論ができる場と時間の設定だけでなく、議論のまとめ役の確保、意思決定方法などを含めて、参加型で決めておかねばならず、相当の時間を要する。村のどこに井戸をつくるか、という話ならともかく、災害や暴動後、速やかに原状回復を図らなければならないフェーズでは、活用できない。 
 
 結局必要だったのは、現地のパートナーとともに、個別の事例に耳を傾けつつも、対象となる人々やコミュニティがグループとして、①緊急支援(取り敢えず明日生き延びられるようにする)、②生活復興(衣食住の確保)、③自立再建(雇用の確保)のいずれの段階にあるかを見極めた上で、そのコンテキストに合致する形で、自分たちが限られた資源をもって、何を実現したいのかを明確にすることだった。 

3.一家を危機に陥れる脆弱性の元を如何に減らしていくか

 職場から家までが遠い、軽い慢性疾患がある、家がトタンなので隙間風が入る、食い扶持には困っていないけれど、肉体労働・単純作業ばかり・・・

 こうした日常的なちょっとした「不便」が、災害や事件に巻き込まれた結果、自立再建の長期間にわたる妨げになり得ることが、3ヶ月間、様々なケースを定点観測していく中で、クッキリと浮かび上がった。いざというときにアクセスできる保険制度や失業手当などの公的セーフティ・ネットを国レベルで整備・更改していくことは、途上国・先進国問わず共通の課題だ。これに加えて、個人レベル・地域レベルでの日常的な予防(防災・公衆衛生・食習慣改善)や投資(住宅投資・スキル・アップ)を促す取り組みが、個人そして地域の危機への耐久力向上に貢献するだろう。 
 
 以上7回にわたる記事で、ノアカリ・ブラモンバリアにおける個人的な活動の経緯と内容、成果と教訓について、報告をしてきた。最後まで読んでくれた人がいたら、その辛抱強さと好奇心に感謝したい。

 前回の記事の終わりに書いたとおり、僕は、今回の活動を「弱者への支援」とは位置づけていない。実際、僕が出会った人々は、確かに困ってはいたが、弱い人たちでは決してなかった。家族や家財を失ってなお、そして、酷暑や暴風雨に見舞われる中でのテント暮らしという環境において、前向きに生活再建に向かっていく姿や子供たちの屈託のない笑顔、あるいは、ひるむことなく「困っているんだからお金をくださいよ!」と迫ってくる姿を見るにつけ、少なくとも、僕よりは強い人たちに見えた。  

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 ~ プレゼントをした剣玉で遊ぶブラモンバリアの村の子供たち。すぐにコツを覚えて遊びだす子供たちの器用さには脱帽だ。~

 振り返ってみると、僕はバングラデシュにおいて「弱者」と感じた人は、実は殆どいないように思う。むしろちょっとしたことで腹をこわして熱を出してみたり、仕事がうまく回らなくてふてくされていた自分のほうが、よっぽど弱者だ。 
   
 本業の合間を縫って、右往左往を繰り返しながら、現場を往復した今回の経験、そしてバングラデシュでの時間が、僕を、僕という人間が持つ弱さを認識させることで、以前より少しばかり強くて優しい人間にさせてくれたのだとしたら、僕はこの国で出会ったすべての人たちに、深く感謝をしなければならない。(本シリーズ終わり)

 bramonbharia 2-3  
 ~ブラモンバリアの竜巻被災地へと向かう道。3月29日に撮影したこちらの写真(記事中段)と見比べていただきたい。大地に根を張り、太陽と雨を一杯浴びて生命力豊かに生き抜くバングラデシュの人、草木は、強い!~ 
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バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/05/29 18:21

破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その6)

 戦犯裁判に激昂した過激派によって破壊されたノアカリ県のヒンドゥー教徒のコミュニティ、竜巻の被害で大勢の人々が家族や資産を失ったブラモンバリア県の村に、バングラデシュ国内外の友人や先輩方から個人的に預かった総額160万5,550円相当の志を直接届け始めてから3ヶ月が経った。 
  ■ それぞれのコミュニティへの個人的支援に至った経緯と、これまでの活動内容については、下記記事をご覧下さい。

   『破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その1)
   『破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その4)


 この間、頻発する暴動と悪化する治安、そして5月上旬に入った2週間の海外出張の合間を縫って、ノアカリの集落には3月23日、4月12日、5月18日の計3日、ブラモンバリアの村には3月29日、4月26日・27日、5月17日の計4日、それぞれ支援に入った。大切な家族、長年かけてつくりあげてきた生活の基盤、そして平穏な日々を失い、困窮と悲しみの下にある人々のもとへと繰り返し向かう力を、僕に貸しくれた皆さんに、改めて感謝を伝えたい。以下では、皆さんの志がもたらした確かな変化と、村の人々や現地のパートナーと向き合う中で得た学びについて、共有したいと思う。
 
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 ~ 2月28日に過激派の襲撃を受けたノアカリ県のアランディノゴル村にあるヒンドゥー・コミュニティへはローカル・バスでダッカから6,7時間、3月22日に竜巻に襲われたブラモンバリア県のジャイルリトラ村へはダッカから汽車、あるいはローカル・バスで4時間程度を要する ~

1. ノアカリ県ラジゴンジ・ユニオン、アランディノゴル村にて
 
 長距離バスやオートリキシャの往来が激しいラジゴンジ中心街を折れて、青々とした田園を横切る村道をオートリキシャで10分ほど進むと、右手に見慣れたドカン(雑貨屋)と小さな橋が見えてくる。橋を渡るとすぐ右手に見える掘っ立て小屋は破壊されたヒンドゥー寺院、左手には警官隊が24時間体制で待機しているテントが張られている。

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 今年3月以降、ヒンドゥー教徒などマイノリティへの攻撃が全国各地で多発している中、バングラデシュ政府は食料などの緊急支援物資の被害者への提供に加え、村人や寺院などがこれ以上攻撃されないよう警官隊を常駐させているのだ。

 このコミュニティを初めて訪れた3月上旬には、徹底的に破壊された家々や寺院の跡が痛々しく、集落は焼け焦げた匂いで満ちていた。あれから2ヶ月半。今や集落の全ての家庭が、政府が配給したトタンでつくられた小屋で風雨をしのげている。しかし、小屋の中にはまだ殆どモノはない。

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 この集落の大学生に対して、焼かれてしまった教科書やノートを買うお金として5,000タカ(約5,000円)ずつを手渡してたことは、以前の記事で触れた。4月中旬に彼らと再会したとき、新品の分厚い教科書を見せてくれたビカッシュ君は、「家の修理も大体目処がついたので、今は学校に通えています」と笑顔で語ってくれた。「バングラデシュの未来をつくるのは、君たち大学生だからね」と声をかけながら交わした握手の力強さは、僕の手にしっかりと残っている。
 
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 この集落を訪問する都度、手渡した1万タカなり2万タカがどのように使われたのか、各家庭を回って確認してきた。よく耳にするのは、ドアや柱といった家の資材、ベットや椅子などの家具、あるいは医薬品の購入に当てたというはなし。コミュニティの人々は酷い人災に見舞われたが、不幸中の幸いだったのは、けが人や死者が出なかったこと。つまり、住環境さえ整えば、それぞれの学校や職場に復帰でき、自らの力で何とか生き抜いていくことはできるだろう。

 問題は、彼らの日当や給与レベルでは、家族の「衣」と「食」を賄うだけで精一杯であるため、まとまった家財道具を取り揃える余裕が生まれないことだ。何しろ、親の代から受け継いできた資産の全てを失った人が殆どなのだから。こうした状況を少しでも変えるために、現地のパートナーであるNGO、Ghandhi Asram Trustのスタッフの皆さんの力も借りて、被害を受けたコミュニティの40家族に対して提供したのが「Happy Box」と名づけたダンボール箱だ。

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 「Happy Box」には、5人家族向けのグラス、お皿、トイレを流すための桶、洗濯やシャワーに使う大き目のバケツ、水がめ、お米を蒸すための釜、カレーを調理する際に使う調理用スプーン、そして蚊帳といった、バングラデシュの一般家庭には必ず備わっている生活必需品が詰っている。NGOのスタッフが卸売業者から大量に仕入れ、各家庭ごとにパケットにして段ボール箱に詰めてくれたのだ。4月中旬に村を訪問した折には、「Happy Box」を荷台に山積みにしたトラックで乗り込み、各家庭に直接届けて回った。ちなみに、一箱分に要した金額は4,280タカだ。

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 また、今後雨季が本格化するなかで集落の衛生環境の悪化が懸念されるところ、コミュニティの公衆衛生を改善するために、各家庭に一つ新品のトイレを設置するとともに、5月半ばに訪問した際には、石鹸を200個買い込んで集落に持ち込み、各家庭に配布した。トイレの整備にはまとまった資金が必要なため後回しにされがちだが、現状のような“垂れ流し”の状況が続けば、病気の蔓延につながりかねない。また資金に余裕のある一部の家だけが据え付けたとしても、狭い土地に100人以上が住んでいるコミュニティの衛生環境は改善しない。そして、病はせっかく軌道に乗った復興に水を差す。  

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 ~ ぼろ布で覆われているだけのトイレ。タンクと便器とをつなぐパイプも破壊されてしまったため、汚物は周囲に垂れ流されている状態だった ~

 というわけで、皆さんからお預かりしたお金を用いて、現地の業者と契約、現地で日々活動しているGandhi Asraf Trustのスタッフによるモニタリングのもとで衛生的な簡易トイレ設置を35個設置することにしたというわけだ。設置に要する資金はトイレ一つにつき1万4,800タカ。耐用年数は5年。5月末現在で35個中20件が完成した。

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 ~新設されたトイレ。トタンでしっかりプライバシーが確保されたほか、便器や汚物タンクも新品に取り替えられた~

 トイレとあわせて支援しているのが、破壊された二件のヒンドゥー寺院の修復。村の人々の信仰の拠り所を取り戻せるよう、それぞれの管理者に5万タカを手渡した。ご神体の修復は6月上旬には終了する見込みだ。


 過激派の襲撃を受けたヒンドゥー教徒の集落については、当初、新聞・テレビで大きく取り上げられたが、その後も高まる政情不安やサバールのビル倒壊事件などもあり、今では殆ど光は当たっていない。しかし、少なくともラジゴンジ・ユニオンのアランディのゴール村に関しては、頂いた支援とGhandhi Asram Trustの協力のおかげで、着実に生活の再建が進んでいる。一方で、コミュニティの間で失われた信頼の再構築に関しては、殆ど進んでいない状況だ。
 
 当初、Ghandhi Asram Trustは、ラジゴンジ・ユニオンのムスリム、ヒンドゥー双方の宗教リーダー、学校の先生、被害を受けた家族の代表、その近隣のムスリム集落の代表などを集めて、「マイノリティへの攻撃が二度と起こらないようにするために何が必要か」、「そのために、一人ひとりが出来ることは何か?」といったテーマについて、落ち着いた環境でじっくりと対話をするためのフォーラムを継続的に実施する予定だった。ちなみに、フォーラム実施の場所は、破壊されたヒンドゥー寺院の前にある広場だ。

 しかし、戦犯問題や年末の選挙の実施方法などをめぐり、与野党、さらにはチッタゴンに拠点をおく宗教団体Hefajafti Isam(ヒファジャット・イスラム)による衝突がその頻度とスケールを増していく中今のところ、対話の機会は一度しかもてていない。今のバングラデシュは、宗教や立場の違いを超えて、人々がセンシティブな問題について落ち着いて話し合えるような状況には、残念ながら、ない。一方で、攻撃を受けた集落と、その近隣のムスリム・コミュニティとは徒歩1分くらいしか離れていないこと、地元の人間の協力がなければターゲットを絞った攻撃は出来なかったことを考えれば、継続的な対話の機会が確保されなければ、お互いの関係はギクシャクしたままとなり、被害者側としては、心を落ち着かせて生活をすることは難しいだろう。Ghandhi Asram Trustのディレクター、ナバ・クマール氏は、フォーラムのメンバーへの個別の働きかけを続けながら、国全体の状況も見つつ、フォーラム再開の機会をうかがっている。

 先日、村での活動を終えたあと、実働部隊として二人三脚で支援を提供してくれたアシムさん、そして責任者のナバ・クマール氏に伴われて、ノアカリ県Begumganj Upozila(郡)の北端にあるGandhi Asram Trustの本部を訪問した。1947年、インド・パキスタンの分離独立に伴ってノアカリ県、チャンドプール県の村々で発生したヒンドゥー教徒とムスリム教徒との間の暴力を憂い、この地を訪問して宗教や価値観の違いに対する寛容さ、非暴力の徹底といった理想を説いて回ったマハトマ・ガンジーに感銘を受けたノアカリの人々が、ガンジーの理想を守り、そして広めていくために私財を投げ打って立ち上げたNGOがGandhi Asramであることは、以前にも紹介した。 

  美しい木々に囲まれ、澄んだ池のほとりに佇むGandhi Asramの施設では、マハトマ・ガンジーのトレードマークでもある糸紡ぎ車を回しながらテーブル・クロスなどを編んでいる女性-その多くは未亡人や障がいを持つ女性たち-の姿とともに、ガンジーが人類に残した数々の至言がそこかしこに掲げられている。 

 「Use hands, not for destruction, but for construction」(手を動かそう、破壊のためでなく、建設のために) 
 「Say "No" to violence, Vioence Solves No Problem」(暴力にNo!、暴力は如何なる問題も解決しない)
「Politics without principle/ Worship without Sacrifice/ Commerce without morality,  cause violence」 (暴力をもたらすもの、原理原則なき政治、犠牲心なき信仰、道徳心なき商売・・・)
  

 あまりにも現代のコンテキストに一致したメッセージを前に、思わず足をとめる。今のバングラデシュ、そして世界の状況を、マハトマ・ガンジーは心から憂いていることだろう。
 
 思えば、僕がノアカリに足を運んだのは、言われなき突然の暴力によって多くを失った人々が生活を取り戻す足がかりを提供するためだけでなく、彼らが怒りと悲しみに身を任せて、次なる暴力の担い手とならないよう、僕自身が彼らの痛みに共感し、彼らのことを案じている人々がこの社会には大勢存在することを具体的な支援とともに伝え、そして、多様性への寛容さを共有しおうという想いからだった。

 村では、多くの涙を目にし、悲痛な訴えを聞いた。限りある支援金や石鹸をめぐって口論をする人々の姿も見た。でも、彼らは、確かにとても困ってはいたが、僕よりもずっと強い人たちのように思えた。怒りに身を任せるどころか、起こったことを受け入れ、その上で、家族を守るために手足を動かし、前に進もうとする、そんな人たちに見えた。僕が同じ状況にあったら、果たして同じような強さを持ち続けられるだろうか、そんな問いと向き合わざるを得なかった。そして、そんな自問自答は、 ブラモンバリアの竜巻の被災地でも僕の心に渦巻いていた。(続く)
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/05/28 01:17

サバールの悲劇 ~人災は何故繰り返されるのか?~

   悲劇は424日水曜日の朝9時に起こった。

 ダッカから北西へ約15キロ、縫製工場が密集するサバール(Savar)という地区で、8階建てのビルRana Plazaが倒壊、ビル内の5つの縫製工場(New Wave Style社、Ether Tex社、Canton Tech Apparel社、Phatom Apparel社、New Wave Bottoms社)で働いていた約3,000の工員たちがコンクリートと鉄骨の山に飲まれたのだ。事故発生直後から、駆けつけた消防や軍のチームが、周囲の市民ボランティアとともに、巨大な瓦礫の下から一人でも多くを救い出すべく、不眠不休の救助作業を約1週間にわたって続けた。BNP(バングラデシュ民族主義者等)率いる野党連合も、実施していたホルタル(暴力的なデモ)を急遽取りやめ、現地に人員を派遣して救援作業を側面支援。市内の大病院では、医療従事者がフル回転で次々と運び込まれる負傷者の手当てに必死で取り組んでいる。事故発生から17日が経過した5月9日には、重機が取り除いた瓦礫の下から、女性工員がほぼ無傷で救出されるという奇跡も起こった。

  rana plaza collapse 3 
    ~倒壊したRana Plazaビルとその周囲に集まる人々(写真出展:Daily Star)~
 

 こうした関係者の懸命の努力にもかかわらず、死者は1,000名を超え、なお増え続けている。そして、このバングラデシュの産業史上最悪の悲劇が、突然起こった不運な事故として片付けられるものでは決してなく、確実に避けられたにもかかわらず発生した、殺人とも言える人災であったことが明らかになるにつれ、人々の、特に全国約5,000の縫製工場で働く工員たちの怒りは爆発した。

 そう、ビルは「突如」倒壊したのではなかったのだ。事件が起こる前日に、従業員がビルの柱に大きな亀裂が走っているのを発見。通報を受けた現地の警察がRana Plazaに立入り、倒壊の危険が高いため、ビルへの立入りを当面の間禁止する旨の命令を出していたのだ。にもかかわらずビルのオーナーは当局の役人が去った後、「建築の専門家」と称する人物を連れてビルの安全性を「検証」し、「修繕は必要だがすぐに倒壊するリスクはない」とビルの関係者に伝えたのだ。これを受け、翌朝5つの縫製工場のマネジメントは通常通りの操業を決定。不安と抗議の声を上げる従業員に対して、

 専門家もオーナーも問題ないと言っているんだ。納期も迫っている。つべこべ言うと、給料を払わんぞ。クビになりたいのか!?」

と脅しをかけて 従業員を、その多くは若い女性の工員たちを、持ち場に着かせた。そして、悲劇はその30分後に起こったのだった。

 一方、このビルの一階に入っていたBRAC Bankの支店では、死者も負傷者もゼロだった。当局の警告を受け、マネージャーはすぐに当面の間の支店業務の停止を決定、従業員だけでなく約2,000人の顧客に対しても、携帯電話のショート・メッセージを使って、支店業務の停止とともに、倒壊の危険性があるRana Plazaには近づかないように伝えるとともに、同趣旨を、監督官庁であるバングラデシュ中央銀行にも報告していたのだ。

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 ~倒壊前のRana Plazaの様子。左下は事故発生前日に発見された、柱に走る大きな亀裂。警察と郡事務所の職員が建物の閉鎖を命じたにも拘らず、操業は続けられた(写真出展:Daily Star)~

 利益確保のために操業継続を最優先し、従業員の命をないがしろにした工場の経営者とビルのオーナーは、業務上過失致死や建築基準法違反の容疑で警察当局によって逮捕されたものの、縫製工場で働く工員たちの怒りは収まらなかった。Rana Plazaの倒壊以降、サバール、アミンバザール、ヘマエプール、アシュリア、ナラヤンゴンジ等、ダッカ近郊の縫製工場地帯を中心に、大規模な暴動がたびたび発生。複数の工場を透析などにより破壊、火炎瓶を投げ込んで放火するとともに、道行くバスや乗用車にも無差別攻撃を加えたのだ。
429日には、出張中だった日本人がアシュリア周辺を車で移動中、デモ隊と遭遇。車を破壊された挙句、鉄パイプやこん棒で殴られ負傷する事件も発生した。

 怒りに駆られた彼らの行動に対しては、「無関係な人を巻き込むのはどうかしている」、「工場を破壊してしまっては自分たちが働く場所がなくなってしまうではないか」、「もっと生産的な方法で抗議できないのか」といった疑問が当然沸いてくる。しかし、以下の事実に思いを致せば、バングラデシュの縫製工場で働く人々が、到底受け入れ難い不条理の下で、如何にやり場のない怒りを沸騰させてきたのかを、理解できるかもしれない。

 例えば20054月に、Spectrum 社の縫製工場が入っていたビルが、ずさんな建築によって倒壊し、少なくとも64人の命が失われ約80人が重軽傷を負った。昨年11月には、Tazreen社の縫製工場で火事が発生、112名が亡くなった。この事件では、ビルの防火管理が皆無であったほか、火災発生が確認されているにもかかわらず、マネジメントが従業員に対して迅速な避難を指揮するどころか、現場にとどまるよう指示を出したことにより、犠牲者の数が膨らんだという、受け入れ難い実態が明らかになった。さらに、今年1月には、ダッカのモハンマドプール地区にあるマンションで火災が発生。そのビルは一般住居用として登録されていたにも拘らず、Smart Export Garment社の縫製工場が違法に操業をしており、10人の女工の命が失われた
 
 つまり、バングラデシュでは、過去何度も「史上最悪」の人的被害を出した事故が起こってきたにも拘らず、しかも、その殆どが、ある程度の注意とコストを払えば死傷者を出さずに済んだものであったにも拘らず、その不幸な記録の更新が続いてきているのだ。何故こうした人災が続くのだろうか?これ以上の悲劇を繰り返さないためには、何が必要だろうか?


 今回の事件はその人的被害の大きさもさることながら、悲劇の舞台となったRana Plazaに入っていた5つの縫製工場が、カナダ、アメリカ、ヨーロッパのアパレル・ブランド向けの服を生産していたこともあり、海外でも大きく報道されている。中には、一月4,000タカ(4,000円程度)という女工の給与や、週6日、一日12-14時間労働という彼女たちの勤務時間にもスポット・ライトを当て、「奴隷労働を強いている」、「労働者の人権を蔑ろにしているバングラデシュからの洋服の輸入は控えるべきだ」、「安い洋服を買い求める先進国の消費者も、間接的に悲劇の発生や労働者の苦境に加担している」といった主張を展開するものも見受けられる。実際、ウォルト・デズニーは昨年11月に発生したTazreen社の縫製工場における火災を契機に、バングラデシュでの委託生産の打ち切りに踏み切った。今回のサバールの悲劇は、欧米企業の更なる撤退を招き、バングラデシュの輸出の8割を占める同国の縫製業、さらにはバングラデシュの経済全体に対して、大きな痛手となる恐れが高い。 

 さらに、欧州や米国の議会では、「一般特恵関税制度(GSP:Generalized System of Preferences:開発途上国から輸入される一定の農水産品や鉱工業産品に対して、一般の関税率よりも低い税率(特恵税率)を適用する制度)について、バングラデシュは、その対象から外すべきではないか」といった、経済制裁に近い提案まで出されている。

 しかし、主としてバングラデシュ国外で盛り上がっているこうした議論は、事件の本質を捉え損ねており、悲劇の再発防止にも貢献しないように思う。なぜなら、事件は建築基準や火災予防基準といった関連規制の執行が著しく弱い、という多くの途上国に共通する構造問題によって引き起こされたものであり、こうした問題は、「可哀想な女工さん」にシンパシーを感じた先進国の消費者が当該国の製品の不買運動をしたり、海外のバイヤーがバングラデシュから撤退したりしても、一切解決しないどころか、より一層の悪化を招くものだからだ。
  
 例えば、今回倒壊した8階建てのRana Plazaビルは、本来4階建てで設計されていたにも拘らず、当局に届出をしないまま5階以上の上層階が付け足されていたこと、かつて沼地だった場所に“おが屑”を敷き詰めただけの地盤に建てられていたこと、もともとショッピング・モールやオフィスとして使うことが想定されていたため、大型のジェネレーターや多数のミシンが一度に稼動することで発生する振動に耐えられるような設計になっていなかったこと、などが指摘されている。  

 これだけを読むと、「Rana Plazaビルのオーナーや、そこで経営をしていた縫製工場の経営陣は実に酷いヤツだ」という結論に飛びつきたくなるが、実は、そして大変残念なことに、バングラデシュに住んでいれば誰しも、こうした信じられないほど杜撰な設計・建築が決して珍しいものではなく、国内の多くのビルが、多かれ少なかれ、日常的な使用のなかで倒壊するリスクを含んでいることを知っている。なぜなら、「ビルの上にビルが建つ」風景や、路上で雨風に晒されてさび付いた鉄骨がそのまま建築に使われている状況を日常的に目にし、あるいは解体した廃船から得たくず鉄をビルの建築に再利用している、という実態を聞いているからだ。また、建築業者の中には、セメントに砂を混ぜる、柱を設計よりも細くするといった方法で「経費を削減」している悪質な者もおり、こうした業者が取り締まられることも無く、堂々と営業を続けていることも、周知の事実なのだ。 

  dhaka construction  
     ~ダッカ市内で建築途中の建物。床、壁ともに建築基準に沿った厚さと品質が確保されているかは大いに疑問だ~

 一方で、バングラデシュには1993年に当時の国際的な基準に準拠する形で作られ、2006年にJICAの協力も得ながら改定された建築基準(Bangladesh National Building Code)がある。また、この建築基準を満たす設計やデザインをするために必要な専門知識を有するエンジニア(建築士)も存在する。問題は、建築基準を実行するための体制、例えば十分な数の検査官の採用と彼らへの継続的な研修実施、検査官による定期的なモニタリングと違反が発見された場合の罰則策定、そしてその執行、といった体制が整っていないため、せっかくの規制が“絵に描いた餅”になっていることだ。建築士についても、公的な資格制度が整備されていないために、権限がはっきりせず、専門家としての彼らの指摘が、実際の建築の過程で考慮されにくい状況となっている。

 サバールの悲劇の背景には、こうした構造問題があるのだ。無論、柱に大きなヒビが入っているにも関わらず、スタッフに勤務を命じた管理職やオーナーは言語道断であり法の裁きを受けるべきだが、それだけでは、あるいは、その様子を見て他の縫製工場のオーナーたちが襟を正したとしても、ビルの倒壊リスクや火災発生のリスクは無くならない。ましてや、海外のバイヤーが撤退しても、問題は解決するどころか、単にその工場の仕事が少なくなって、女工の給料が下がる、あるいは彼女らが失業する、という結果がもたらさせるだけだ。

 したがって、今後、悲劇が繰り返されないために第一に必要なのは、関連規制の執行強化に向けた政府の体制整備なのだ。一方で、バングラデシュの縫製工場をサプライ・チェーンに組み込んでいる、あるいは組み込もうと考えている海外民間企業のビジネス・パーソンが、問題解決に向けて貢献出来ることもある。

 それは恐らく、今ある建築基準や火災予防基準の遵守を、バングラデシュの工場経営者に対して建設的に働きかけることではないだろうか。具体的には、経営陣やマネージャー・クラスとの価格や納期をめぐる交渉だけでなく、工場の現場作業員との対話に時間を割き、現場の実態を可能な限り把握すること、規制の遵守状況の確認と是正措置をとるために必要な時間を工場のマネジメントに与えること、そして、それに伴い必要となるコストが、製品単価に転嫁された際に、それを受け入れることではないだろうか。こうした関与の継続は、一時コストの増をもたらすかもしれないが、バングラデシュの工場が、今まで以上の品質の商品をタイムリーに生産する体制を整える上での助けになるとともに、自社のリスク管理にも貢献するだろう。

   一方で、「労働者の人権を確保し、規制を守らなければ取引を打ち切るぞ」、「関税上の優遇措置だって、無くなるかも知れないぞ」と脅しをかけておいて、工場の実情もつぶさに見ることなく、単価のカットと納期の遵守を主張していたのでは、バングラデシュの工場経営者側は、ますます防御的になり、問題解決に必要な対応を継続的にとることが難しくなるだろう。 

 CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)の重要性が叫ばれて久しく、その一環として環境問題や貧困問題に取り組むNGOへの寄付や地域社会への貢献などに取り組んでいる企業も多い。それはそれで結構なことだが、「責任」とは「権限」と表裏一体の言葉であることを踏まえれば、自らの権限が直接及ぶ範囲、たとえば取引先や委託先が、法令順守などの最低限の責任を継続的に果たすようなインセンティブを与え得る関与を続けるために人と時間と金を割くほうがことが、まずもって優先されるべきCSRではないだろうか。サバールのような悲劇がバングラデシュで、あるいは他のどの国においても、これ以上繰り返されないために。

バングラデシュの経済・産業が織り成す物語 | コメント:(6) | トラックバック:(0) | 2013/05/10 20:50
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