スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | --/--/-- --:--

破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その3)

 ダッカから約150キロ南東に離れたノアカリ県に入った僕は、現地の水先案内人であるGhandhi Asram Trustのナバ・クマールさん、アシムさんとともに、ラジゴンジ・ユニオンのアランディノゴル村へと向かった。途中すれ違うのは青々とした水田、学校帰りの子供たちの楽しげな笑顔、茶屋で井戸端会議に花を咲かすおじさんたち・・・この地で狂気と暴力が発生したとはとても信じられない風景ばかりだった。

 田舎道をしばらく行くと見覚えのある橋に目が留まった。この橋を渡るとアランディノゴル村だ。村の入り口には無残に破壊されたヒンドゥーの神々の像を収めた小屋がある。寺院を過ぎると1-2分もしないうちに、焼けた木々の下、トタンで作った掘っ立て小屋が並ぶ集落が現れる。ここが、攻撃されたヒンドゥ教徒の人々が細々と暮らすコミュニティだ。


  • 偏狭な過激派によって生活の基盤を全て破壊されたヒンドゥー教徒のコミュニティ支援に至る経緯については、下記記事をご覧下さい。

   『破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その1)
   『破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その2)



 家の基礎にするための泥をかごに入れて運んでいた見覚えのある若者が、僕に気付いて駆け寄ってきてくれた。「また来たよ、覚えているかい?」とベンガル語で声をかけると

 「もちろんですよ。シャゴレル・ボロバイ!!会えて嬉しい。」

と満面の笑みで応えてくれた。彼は今年二十歳になったビカッシュ君。ノアカリ大学で生物学を学ぶ2年生だが、今回の人災で教科書やノートを全て焼かれてしまい、また、家の修復作業にも忙しく、事件以来大学に行けていないという。教科書を買い揃えるのに5,000タカ程度は必要だが、当然そんなお金は彼の家族にない。このコミュニティには、彼のような大学生が他に2人いるらしい。

  Aradhinogor-3
  ~ノアカリ大学で生物学を学ぶビカッシュ・チョンドロ・ダッシュ君。14歳の弟ジョイデブ君とともに、家の修復の手伝いをしていた~

 ちなみに、僕の名前、“洋一郎”は、初対面のバングラデシュの農村の人々にはなかなか覚えてもらえない。そこで、ベンガル語で「大洋」を意味する「シャゴール」と、「一郎(長男)」を意味する「ボロバイ」を合わせて、「僕の名前をベンガル語に訳すと、“シャゴレル・ボロバイ(海の兄貴)”だよ」とベンガル語で自己紹介すると、老若男女に大いに受けて、すぐに名前を覚えてもらえるのだ(その代わり、本当の名前が定着することは無いのだが・・・)。

 村には、政府が配給したトタンや、一人当たり4,000タカの給付金に加え、今回僕を案内してくれているGhandhi Asram Trustや赤新月社(Red Crescent Societies:イスラム社会で活動する赤十字社の姉妹組織)等のNGOが、当座必要な食料などの生活必需品を現物で寄付しているため、飢えをしのぐことは出来ているようだ。昼ごはんを準備中のおばさんは、調理用のなべ、火をつけるためのマッチや燃料なども支給されたと話してくれた。   
 
   Aradhinogor-13

 前回訪問した際にもこの集落で支援活動をしていたムスリムの女性、シャイーンさんとも再会。

 「元気かい?今日は一人で来たんだね。私の家はここから歩いて5分くらいのところだから、毎日通って、手伝いをしているんだ。」

と相変わらずの明るい大声。シャイーンさんのカラカラとした笑い声がコミュニティに響くと、雰囲気も少し明るくなる。 今回の事件で心を痛めているムスリムはシャイーンさんだけではない。ムスリムの教えを大切にするダッカの大学生たちがそれぞれお金を出し合って集めた10万タカを攻撃されたヒンドゥー・コミュニティに寄付したという話も聞く。一連の事件は、多数派ムスリムによる少数派のヒンドゥー教徒に対する攻撃では決してない。バングラデシュの国としての一体感、宗教や文化の違いを超えた調和を揺るがそうとする一部の指導者と、それに盲従する暴徒がもたらしたものなのだ。

 僕がアランディノゴル村を前回訪問したのは3月8日。その際、政府からの給付金をもらい損ねていた家庭5軒に対してそれぞれ5,000タカずつの支援を手渡した。まずは、その家庭を訪問し、先日提供したお金がどのように使われているかを尋ねると、一枚900タカのトタンや、ドア(4-5,000タカ程度)といった家の資材に使っていたケースが多かった

 もうすぐジョールが来るから、今の状態では小屋がすぐに壊れてしまう。政府から配給されたトタンだけでは足りなかったので、支援を頂いて助かりました。」

と語ってくれたのは、前回の記事でも登場したお母さんルンパさんだ。ノアカリを含むバングラデシュの多くの地域では、毎年乾季が終わる4月の中下旬頃、ジョールと呼ばれる猛烈な風雨と雷を伴う嵐がやってくる。多くのバングラデシュ人にとってジョールは、半年以上待ち焦がれた雨をもたらす恵みだが、それは雨風をしのぐ家があっての話だ。掘っ立て小屋ともいえない今の状態から一刻も早く脱却しなければ、赤ちゃんや老人などの命に関わる。 

  他のご家庭の話を聴いて回ると、家族が病気になったが薬を買う現金が無い、燃えてしまった教科書を買わなければならない、今まで職場までの足として使っていた自転車が燃やされてしまった一方で現金が無いので、職場に復帰できないなどなど、さまざまな声が聞こえてくる。

 さて、

 友人や同僚から預かった支援金のうち、今日持ってきたのは9万タカ(約9万円)。これをどう配分するか?一通りコミュニティの人々の声を聞いた後、Ghandhi Asram Trustのアシムさん、ナバ・クマールさんとともに、地面に座り込んで、配分方法について相談をしてみた。
  
  Aradhinogor-4
 
 「実はこの前、政府からの給付金をもらいそびれた5家庭に対して5,000タカをお渡しするとき結構大変だったんです。『うちは家族の数が多いのにこれしかもらっていない』とか、『旦那が失業している』とか、『家族のメンバーに障がい者がいる』とか、それぞれ大変な事情があって、全部に耳を傾けながら『正しく、平等な配分って何だろう』と考えていたら、混乱してしまって・・・」

 「イケダさんの悩みはよく分かります。実際、我々もドイツの方から頂いた10万タカの寄付の使途を考える際に悩みました。確かに彼らは今、切実に現金を必要としていますが、全家族に対して同額ずつ渡していくと、薄く広い配分になってしまい、結局消耗品にしか使えない額になってしまう。しかも、各家庭の人数や被害額も違うので、均等配分は必ずしも「平等」を意味しません。それに、お金を渡すことで、彼らが働く意欲をそいでしまうかもしれない。この点にも注意が必要でしょう。」

 被災者名簿を繰りながら悩みを共有してくれたアシムさんに続いて、マネージャーのナバ・クマールさんはこんなアドバイスをくれた。
  
  「我々には当座使える支援金は10万タカしか無かったので、悩んだ末に、コミュニティの皆が使う水洗の清潔なトイレの設置に使うことに決めたのです。 一案ですが、例えば教科書が無くて困っていた学生がいたでしょう。教科書はお金が無くては買えない将来の投資です。彼らに教科書代だといって、渡してみるのもいいかもしれません。あとは、我々が作った被災者名簿を見れば、子供の数や事件発生前の収入が分かるので、この中から、イケダさんが特に優先的に資金をお渡しするべきだと考える、脆弱な家庭や超貧困家庭に対して、皆さんからの支援をお渡ししてはどうでしょう。」


  なるほど、教科書や教育費に使うようにお願いをして、その使い手である学生に直接渡すというのは一案だ。どうせこれから何度も来るのだから確認も出来る。あとは、もっとも貧困な家庭の見極めか・・・僕は被害者の名前や収入、職業、そして被害額が丁寧に記されたリストのページを繰りながら考えていた。

 「まぁ、そんなに一生懸命悩まなくても・・・我々からも、これはまったくの個人的な善意であって、政府がやるように皆一律という訳ではないんだ、という事情や、イケダさんのお考えをしっかり彼らに伝えますから。それに、イケダさんがきてくれているだけで皆ハッピーなんですから(笑)。」

 ナバ・クマールさんの言葉に背中を押されて、僕は腰の辺りから、皆の気持ちが詰まった分厚い封筒を取り出した。まずは教科書を必要としている大学生3人だ。一人ひとりに声をかけながら、5000タカずつを手渡していく。 
 
  Aradhinogor-8
 ~ ノアカリ大学の3年生、ノクール・ チョンドラ・ダシュ君。「このお金は、バングラデシュの将来を気遣う大勢の友人たちからの気持ちだ。これで教科書を買って、一生懸命勉強してほしい。バングラデシュの将来を創るのは、君たち大学生だ」とベンガル語で伝えると、まっすぐな瞳で、「わかりました。次に来たときに、買った教科書を見て下さい。僕らの大学にも来て下さい」と応じてくれた。~

 次に訪問したのは、今年70歳になるおばあちゃん、ビシュヌ・ラニ・ダシュさんのご一家だ。

 ビシュヌさんは夫の先立たれ現在3人息子、3人娘と暮らしている。子供たちはもう20代、30代と十分に大人なのだが困った事に一人も結婚していない。訳を尋ねると、「3人娘を嫁に出すのに必要なダウリ(結婚持参金)を支払えない」のだという。いくら必要かとたずねると「20-30万タカ」という法外な金額。一方、3人息子たちの状況はというと、長男のオジョンドルさんは病院の清掃員の仕事で月給が2,500タカ、次男は街の散髪屋で働いており月給2,000タカ、三男も清掃員で月給2,500タカと、3人足しても7,000タカ。3人息子がそろいもそろって結婚しないのは、「自分が結婚したら妻と子供の面倒を見なければならなくなり、姉・妹・そして老いた母の面倒を見切れなくなってしまうから」という理由。

 収入は少ないが家族思いの7人がつつましく暮らしていた家は、30年前、ビシュヌさんの旦那さんが若かった頃に建てたもので、以来、少しずつ家財道具を買い揃え、それなりに住み心地の良い家だったという。それが、狂信的な無法者による攻撃で、全てが灰になってしまったのだ。実り豊かだった家の裏のマンゴーの木も、炎に飲まれて今は黒焦げの無残な姿に変わってしまった。 
 
  Aradhinogor-5
    
   「ビシュヌさん、このお金、あなたとあなたの家族のことを心配する、バングラデシュの、そして世界中の友達から預かった気持ちです。皆、あなたのことを大切に思っています。一日でも早く、元の暮らしが戻ることを祈っています。このお金を家族の幸せのために使って下さい。」

 ビシュヌさんに手渡すと、彼女は「どうか、あなたと、友人の皆さんに祝福がありますように」とささやきながら、その細い手で、僕の頭を優しく撫でてくれた。年老いた母の目には、涙があふれていた。

 他に5歳になる一人息子シマント君と暮らす未亡人プリティさんのご一家、そして耳と喉に障がいを持つショミール・チャンドラさんとその奥さん、息子のご一家に2万タカずつ、ご夫婦と小学校に通う二人娘と高校生の一人息子のビマル・チョンドルさんのご一家に1万タカ、そして一月3,500タカの年金暮らしのマヤ・ラニさご夫婦に5,000タカをお渡しし、とりあえず、“腰の重み”はなくなった。

  Aradhinogor-14
   ~  ビマルさんご一家のお母さん、ショロショリティさん。5歳のティアラちゃん、11歳のディーパちゃん、そして16歳のドロン君の3人の子供を抱えたこれからの生活に不安は尽きない。泣き崩れる彼女を前に、長男のドロン君に「今は本当に大変だろうけど、君は長男なんだから。強い一人息子として、妹たちとお母さんを支えなければね。」と伝えると、唇をかみ締めながら強くうなづいていた姿に印象付けられた。~
 
 30度を超える気温の中、ファンも付いていないトタンの掘っ立て小屋は蒸し風呂のような暑さだ。額からは汗の粒が間断なく零れ落ち、土の床に染みを残していく。「腹も減っただろうし、そろそろ引き上げましょう」と声をかけてくれたアシムさんに促されて村を出ようとすると、村の人々が、「何もないけど、何か食べていって欲しい」と手を引っ張ってくる。僕にあげるものがあったら子供やお年寄りにあげてくれと伝えてもまったく聞き入れてもらえない。という訳で、頂いたココナッツのジュースを遠慮なく一気飲み。カラカラに乾いた喉にさわやかなココナツの果汁が染み渡っていく。

   Aradhinogor-15


 ランチというには遅すぎる食事を済ませた後、アシムさん、ナバ・クマールさんと固い握手を交わしてノアカリを後にした。夕食の準備のために買い物に出る人々で街道沿いの市場は熱気に満ち、人々が群がるドカン(雑貨屋)は、夕日に照らされた長い影を、乾燥した街路に落としている。次第に深い藍色に染まっていく空を眺めながら、僕は、ノアカリで出会った人々の表情、交わした言葉、その時生じた心の動きを一つ一つ思い出していた。

 残念ながら、いつの時代になっても、暴力、偏見、差別は人々の心の中から無くならない。僕の心のどこかにも、そういう悪魔が巣食っているだろう。人間が本質的に持つ負の感情が、政治的・経済的な動機と結びついて扇動された時、マイノリティへの攻撃という人災が発生する。そのような事件は歴史を振り返り、地球儀を回して見れば山ほど見つかり、また日本だって、その例外ではない。

 でも、天災や疫病と違って、こうした事件は人間が起こすものだから、その解決も人間に委ねられているはずだ。人間が右脳を使って生み出す共感力や想像力を軸に、左脳を使って作り出した例えばウェブ等の新しい技術を使いこなして、自身を取り巻く様々な壁を乗り越えていけば、一人ひとりが問題を解決する主体になれるはずだ

 今日、僕がアラディノゴル村の人々に届けたのは、生活を再建するための元手であると同時に、言われのない暴力に突然襲われた人々の痛みに対する共感であり、多様性や異なる価値観への寛容さを大切にする想いだ。そんな気持ちを僕に預けてくれた友人たちと、アラディノゴル村の人々とは、それぞれの生涯を通じて、直接出会うことは多分ないだろう。でも、僕が今、バングラデシュのローカル・バスで揺られながら見上げている夜空と、東京やワシントンで見える空はつながっている。そして、身の回りにある様々な壁や物理的な距離の存在にもかかわらず、ひとつの空の下で、人々も、実はつながっている。そんなつながりを少しでも広げ深めるお手伝いをするメッセンジャーとして、僕はまた、人々のもとへと向かいたい。

 ダッカの我が家にたどり着くと、時刻は午前零時を過ぎていた。長くて深い一日の幕を、抗い難い眠気と心地よい疲れが、すぐに下ろしてくれた。

スポンサーサイト
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(2) | トラックバック:(0) | 2013/03/31 05:51

破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その2)

 3月23日土曜日、朝5時半。

 モスクから鳴り響くアザーンに見送られながら、僕は自宅を後にした。朝一の礼拝に向かう数人の敬虔なムスリム以外は、早朝の街路に人の姿はない。10分ほど歩いてたどり着いた大通りで待ちぼうけしていると、程なく働き者のCNG(天然ガスで動くオートリキシャ)が僕の前に止まった。鉄格子のような扉を開けながら、運転手に告げる。

 「サイダバット・バスターミナルまで頼む。ノアカリへ行くバス乗るんだ。」

 週末のこの時間は渋滞が無いために、まるでダッカの町全体のサイズが縮んでしまったのかと思うほどだ。ダッカの南部にあるサイダバットへは平日であれば軽く1時間半はかかる道のりだが、今日は30分少々で到着。しかし、バスターミナルは週末の早朝にもかかわらず、人とバスとリキシャでごった返していた。 ノアカリ行きのバスはどれだろう、道行く人々に聞いて回っていると、指差されたその先で、

 「ノアカリー!、ノアカリ行き、Asia Classic、出発するぞ!!」 

と叫びながら、車掌がフトント・ガラスにひびが入ったバスの横っ腹をバンバン叩いているのに気付く。朝食用にドカン(道端の小店)で買ったルティ(クレープの皮のようなパン)、ディム(焼き卵)、パニ(水)を紙袋に突っ込んで、既にゆるゆると動き出している長距離バスに飛びってようやく一息。350タカ(約350円)の切符を手に向かう先は2週間前に友人とともに訪れたノアカリ県のBegumganj Upozila(郡)、Rajganj Union(ラジゴンジ・ユニオン)のArandhinogor(アランディノゴール)村だ。

 Bangladesh Noakhali Map
 
 バスターミナルを出発したバスは、ダッカ-チッタゴンを結ぶ幹線道路に入って、そのスピードを一段と上げた。対向車線いっぱいにはみ出して前方の車やオート三輪を次々と追い抜きながら疾走を続けるバスの車窓からは、心地よい風とともに、乾燥しきったバングラデシュの大地から舞い上がる土埃が間断なく吹き込んでくる。半年続いた乾季も終わりが近い。バングラデシュに来てから早1年8ヶ月、これまで週末のかなりの時間を農村や地方都市で過ごしてきた僕にとって、ローカル・バス、船、あるいは汽車を使って一人で移動するのは特別なことでは無い。しかし、今日は幾分の緊張感が、“腰の周りに”感じられる。ダッカ、ワシントン、そして日本にいる多くの友人や同僚から預かっている“志”の一部、9万タカもの現金を携えて移動するためだ。これを必要としている人々に、そしてコミュニティへと届けるために。
  • 偏狭な過激派によって生活の基盤を全て破壊されたヒンドゥー教徒のコミュニティ支援に至る経緯については、下記記事をご覧下さい。
   『破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?(その1)
  • 現在バングラデシュの全国各地で発生しているマイノリティへの攻撃や暴動の引き金となった「戦犯問題」の背景については下記シリーズをご覧下さい。
   『国民国家は何によって結びつき、何によって引き裂かれるのか?

  ノアカリの中心地、マイルディ・バザールに到着した頃には、太陽は既にその強烈な光をほぼ直角に地面に投げかけていた。幸い大した渋滞は無かったが、150キロの旅路を行くのに約6時間を要したことに気付く。ここで電話をかけると、口ひげを生やした一人の男性が、往来の激しい交差点の向こう側で、手を振っている。
 
 「Ghandhi Asram Trustのアシム・クマール・バカッシュです。ノアカリへようこそ。待っていましたよ。」

 握手を交わしたその男性、アシムさんは、僕がこの地で協働するパートナーだ。攻撃されたコミュニティ支援のために、世界銀行ダッカ事務所の全職員宛にE-mailでメッセージを送ったところ、上司であるバングラデシュ担当局長(Country Director)のサルマンが、

 「個人的な支援活動をするなら、現地の状況を良く知るNGOと連携をしたほうが良いかもしれなよ。それに、今回の件は政治も色々絡んでいるから、政治色の薄い中立的なNGOと一緒に現地に入るのが無難だ。私が以前より懇意にしているNGOの代表を紹介するから、もし良かったら連絡をしてみたまえ。」

と言って つないでくれたのが、ノアカリ県で40年以上活動を続けるNGO、Ghandhi Asram Trustなのだ。

 Ghandhi Asram Trustの発足は1947年にまで遡る。当時、インド・パキスタンの分離独立に伴ってノアカリ県、チャンドプール県の村々で発生したヒンドゥー教徒とムスリム教徒との間での暴力を憂いたマハトマ・ガンジーがこの地を訪問、宗教や価値観の違いに対する寛容さ、非暴力の徹底といった理想を説いて回ったのだ。これに感銘を受けたノアカリの人々が、ガンジーの理想を守り、そして広めていくために私財を投げ打って立ち上げたのがGhandhi Asram Trustなのだ。

  Aradhinogor-11
 ~ノアカリ県の北部、Jayag郡にあるGhadhi Asram Trustの敷地内には、マハトマ・ガンジーが説いた普遍的なメッセージが掲げられている。今のバングラデシュが取り戻さなければならない大切な精神ではないだろうか。~

 パキスタン統治時代は、その土地や資産を凍結されるという憂き目にもあったが、1971年のバングラデシュ独立を機に活動を再開。現在では、イギリスの援助機関DFIDやオーストラリアの援助機関AUS-AIDEといった海外のドナーからの資金を得て、最貧層の特に女性に対する就業支援や、小規模なインフラ整備プロジェクト等を実施している。約150人のスタッフのうち6割がムスリム、4割がヒンドゥーだという。 

 「長いバス旅でお疲れでしょうから、例の村に入る前に、とりあえず茶でも飲みながら、状況をお話しましょう。」

 アシムさんに誘われて、街道沿いの茶店に入り、言われ無き暴力の被害にあったラジゴンジ・ユニオンのアラディノゴル村の被害状況とGhandhi Asram Trustのこれまでの救援活動について話を伺った。アシムさんがカバンから取り出したノートには、2月28日金曜日の午後に発生した暴力によって被害を受けた人々の氏名、職業、家族構成、被害総額等が丁寧に記されている

 Aradhinogor-1

 Ghandhi Asram Trustは、当面の運転資金を活用して、被害にあった家族向けに、ろうそく、服、野菜、食器、灯油といった基本的な生活必需品を詰めた袋を提供しているほか、あるドイツ人から寄付された10万タカを使って、破壊されてしまった共同トイレの敷設に取り掛かろうとしているという。

 「難しいのは、 コミュニティのメンバー同士の信頼の回復です。燃やされた家や家財道具は、金さえあれば何とか原状回復できるけれど、お金で信頼を取り戻すことは出来ません・・・」

 遅れてやってきたGhandhi Asram Trustのマネージャー、ナバ・クマールさんが、額の汗をぬぐいながら悩ましげに語る。ちなみに、このナバ・クマールさんが上司である世銀の局長が紹介してくれた人物だ。

 「ユニオン・パリシャド(ユニオン評議会:住民からの選挙で選ばれるバングラデシュの基礎自治体)のメンバーなどは、コミュニティの信頼回復のために、何か活動を実施していないのでしょうか?」

 こうたずねると、ナバ・クマールさんは、いすを少し前に引き、身を乗り出して声を潜めながらこう語った。

 「実は、ユニオン・パリシャドのチェアマン(議長)が数日前逮捕されましてね・・・あのチェマンはBNP(バングラデシュの野党第一党であるバングラデシュ国民主義等:Bangladesh Nationalist Party)なんですが、どうやら、2月28日に暴れたジャマティ・シビール(野党ジャマティ・イスラム党の学生団体)の連中を影でサポートしていたようなんです。評議会のメンバー数人も、同じ疑いで今警察の取調べを受けているんですよ。

 逮捕されたユニオン・チェアマンのことは、私も個人的に知っているんですが・・・あの日、どうもラジゴンジで大変なことが起こっているらしい、という噂を聞いて、私も彼に電話をしたんです。ノアカリ県の知事(District Commissioner)等の政府高官も、必要な対応を早急に取るよう彼に指示を出すために連絡を何度も試みていたようなのですが、彼の携帯も秘書官の携帯もまったく通じなかった。暴徒を具体的にサポートする側に回っていたかは私にはわかりませんが、見て見ぬ振りをしていたのは確かだと思います・・・」 

 ナバ・クマールさんが小声で話すキナ臭い匂い話に耳を傾けながら、僕は2週間前にラジゴンジ・ユニオンで目にした風景を思い出していた。鉄パイプで打ち壊され、手製爆弾を投げ込まれ、そして灯油をかけて焼き尽くされた、あのヒンドゥーのコミュニティには家が18軒あった。しかし不思議なことに、そのうち2軒だけが、何故か無傷で残ったのだ。その理由はその2軒の家の裏手に回ってみると察しがつく。すぐ後ろにムスリムの一家が住む家があるのだ。隣の家に火が燃え移らないように、ヒンドゥー・コミュニティとムスリム・コミュニティのボーダー付近にあった2軒については、攻撃の対象から除いたのだろう。 
 
  Aradhinogor-12 
  ~破壊され焼かれたコミュニティ。本来であればマンゴーやジャックフルーツなどの恵みをもたらしてくれる周囲の木々も焦げた無残な姿をさらしている。~

 ちなみに、ガロ、ラカイン、チャクマといった少数民族の家を除けば、バングラデシュ人の田舎の家の外見は、住み人の信仰の違いではっきりと分かる特徴がある訳ではない。従って、村のどの家に、どんな家族が住んでいるのかを知っている誰かの協力が無ければ、 上記のような手の込んだターゲティングは決してできない。

 大分ぬるくなった茶をすすりながら、僕は暗澹とした気持ちになっていた。これまで村の人々はバングラデシュ独立以来40年にわたり、宗教の違いなど関係なく平和に暮らし、ともに働いてきたのだ。「戦犯問題」を契機とする今回の騒動で、そうした暮らしの基盤となっていた信頼は粉々に壊されてしまったのだろう。修復には相当の月日と忍耐とコミットメントが求められる。そして、ターゲットを絞った攻撃や暴力が起こっているのはノアカリだけではない。チッタゴン、フェニ、ブラモンバリア、ラッシャヒ、ニルファマリなどなど、バングラデシュ全国のあちこちの村で発生しているのだ・・・

 でも、今はやれることをやるしかない。そのための力を、大勢の友人や同僚の皆から預かっている。少しでも前向きな力をコミュニティの人々の心に灯すことができるはずだ。甘ったるい茶とミシュティ(水飴を濃縮してつくったようなバングラデシュのお菓子)をすきっ腹に流し込んだ僕は、アシムさんが運転するバイクの後部座席にまたがって、ラジゴンジ・ユニオンのアラディノゴル村へと向かった。(続く)

 
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/03/27 03:35

バングラデシュが未来を切り拓くには何が必要だろうか? ~技術立国を目指して走り続ける若者たちの物語(その4)~

 気温の上昇とともに高まるボンゴボンドゥ国際会議場の熱気。スタートを切ったエコラン・カーが会場を3周して戻ってくると、すぐにレフリーが駆け寄り、車両に据え付けてある燃料用シリンダーのメモリを確認、ガソリンの使用量をチェックする。狭いコックピットから下りてヘルメットを脱いだドライバーの学生は、安堵と興奮が混じりあった笑顔を仲間に向けながらハイタッチを交わす。会場が歓声と拍手に包まれる。

   Ecorun 2013 8

 一方で、一旦スタートラインに並んだものの、走り出すことが出来ない車もある。学生たちは会場脇に車を移動させ、作業用具箱を広げ突貫工事に入る。エンジン・カバーをあけ、車輪と車軸の接続を確認するも問題点は見つからないようだ。

 「この前、うちのキャンパスで試したときは、ちゃんと動いたんだ…」

 焦りと失意が浮かぶ彼らの背中を、太陽が容赦なく照りつける。滲む汗、会場にこだまする金属音、そして無情に過ぎていく時間。真剣勝負のレースだからこそ、結果は冷徹だ。そこに妥協や抜け道、交渉の余地はない。動くものは動くし、動かないものは動かない。ものづくりの厳しい現実が、おそろいのポロシャツに身を包んだ学生たちの前に立ちはだかる。
 
  Eco-Run Bangladesh 2

 3月15日に開催されたエコラン全国大会に至る経緯、及びエコラン-バングラデシュの火付け役である青年海外協力隊員、大河原俊弥さんのエコランに懸ける想いについては、以下の記事を参照ください。
 「バングラデシュが未来を切り開くには何が必要だろうか~技術立国を目指す若者たちの物語(その1)~
 「バングラデシュが未来を切り開くには何が必要だろうか~技術立国を目指す若者たちの物語(その2)~
 「バングラデシュが未来を切り開くには何が必要だろうか~技術立国を目指す若者たちの物語(その3)~
  
 結局「第一回バングラデシュ・エコラン全国大会」という晴れ舞台で、見事完走することが出来たのは、エントリーした15台のうち10台だった。そして、小休止をはさんでいよいよレースの結果が発表される。JICAバングラデシュの戸田事務所長と、Ghulam Muhammed Quader商業大臣がステージに上がると、これまで会場を支配していた歓声が静寂と緊張に取って代わられた。参加チームそれぞれに参加賞が授与され、いよいよ3輪・4輪それぞれの部門における最優秀賞の発表だ。 
  
  「第一位、BUET!! (バングラデシュ工科大学)」
 
 会場の一角から沸きあがった雄叫びが、大臣の声をかき消した。そして「ブーエット!!ブーエット!!ブーエット!!!」という地鳴りのようなコールが続く。抱き合い、ハイタッチを交わしながら勝利の喜びをかみ締めるBUETのチーム・メンバー。 バングラデシュ最高峰の工科大学であるBUETは三輪部門、四輪部門ともに、優勝の栄光を手にした。

 続く第二位に輝いたのはCUET(チッタゴン工科大学)。そう、あのアルディーラさんのチームだ。 おそろいのライト・ブルーのポロシャツと弾ける笑顔、そして雲ひとつない空に突き上げられたVサインが、まっすぐな陽光の下でキラキラ輝いている。 人生に深く刻み込まれるであろうアツい青春の一ページを、今この瞬間、全身で謳歌している若い学生たちを、春風にそよぐバングラデシュと日本の国旗が温かく見守っている。「勝利の喜びを、敗北の悔しさを、さらなる挑戦への動力とするんだ。君たち一人ひとりが「技術立国バングラデシュ」という未来の担い手なんだ!」そんなメッセージを投げかけながら。 
 
  ECORUN-DHAKA3 
   ~ 三輪部門で2位、四輪部門で3位に輝いたCUET(チッタゴン工科大学)の学生たち。前から二列目、左から2番目の小柄な女学生がアルディーラさんだ~

 初の全国大会実現に至る3年という長い月日を通じて、若者たちを焚き付け、叱咤激励し、そして二人三脚で走り続けてきたエコラン・バングラデシュの原動力、大河原俊弥さんは、大会を振り返ってこんな風に語ってくれた。

 「エコラン全国大会を実現した今、バングラデシュの大学生たちに一番伝えたいこと・・・それはもちろん「どうだ、ものづくりって楽しいだろう?!」これに尽きます。」

 「頭で考えるだけではない、喧々諤々議論するだけでもない、思い描いたものを実際に具体的な形に落とし込む作業。これが本当に難しく、そして楽しい。失敗を重ねながら少しでも完成度を高めていくそのプロセスを、これからも大いに楽しんでもらいたい。来年以降もエコラン全国大会を続けていくことで、負けた悔しさ、勝った喜びを次に活かす機会が生まれるし、また、先輩と後輩同士の共同作業を通じた新たな絆も生まれるはずです。」

  Eco-Run Bangladesh 4

 「初のエコラン全国大会に敢えて点数をつけるとしたら・・・そうですね、60点というところでしょうか。いえ、別に厳しすぎる訳ではないと思いますよ。実際にエントリーした15車両のうち、しっかり完走できたのは3分の2でしたしね。それに、今回はJICAとバングラデシュの共同開催ということで、大会に必要な資金もJICA側から出ています。来年以降、バングラデシュ側の単独開催、そしてJICAの協賛という形にして、よりいっそう、バングラデシュの工科大学とそこで学ぶ学生たちが、資金面でも運営面でも独立していかなければならない。」

 大河原さんの視線は常に前にあり、その行動は常に現場にある。そんな大河原さんと語りながら、僕の脳裏に昔聞いたひとつのエピソードが蘇った。

 1950年代前半。未だバングラデシュが東パキスタンだった時代に、4人の日本人農業技術者がベンガルの土地にいた。当時のメディアや政府の高官は「ズボンのすそを膝までまくり上げ、はだしで泥田に入り込み、農家とともに田植えに勤しむ日本人技術者」の姿に驚嘆としたという。何しろ、 当時の東パキスタンの農業普及員と言えば、日傘を差しながら、田んぼの畦に立って、農家に「ああしろ、こうしろ」と指示を出すのが当たり前の姿だったのだから。

 それから半世紀以上を経た現在、バングラデシュの農村を訪問した日本人は、日本の農村を髣髴とさせる整然と列を成す水稲に出会うだろう。そして40年前の独立時と比較して2倍以上に増加した1億5千万人という巨大な人口にもかかわらず、ほぼ100%の自給率を達成したバングラデシュの米の生産力の高さに印象付けられるだろう。こうした持続的で確かな開発成果の影には、暑い太陽と容赦無い風雨の中で日々汗をかく現場の農家と徹底的に向き合い、彼らの声に耳を傾け、ともに試行錯誤を続け、そして必要な改善を自らの行動で示してきた日本人農業技術者の姿があるのだ。 
 
  そして今、バングラデシュは2020年までの中所得国入りを目指して第二次産業の基盤強化に官民を上げて取り組んでいる。そして、既に世界第2の輸出量を誇る既製服(Ready Made Garment)に加え、このブログでも紹介した強力な製薬産業、あるいは食品加工業、そして"Our Product"のキャッチ・コピーで知られ、Made in Bangladeshの冷房、冷蔵庫、そしてバイクまでをも生産するWalton等の製造業など、バングラデシュの極めて多彩で裾野の広い地場産業の存在を知れば、その目標が、決して非現実的なものではないことに気付くだろう。もちろん、課題も多い。たとえば、上述の産業が真に競争力を持つには、縫製業であればミシン、製造業であれば金型、製薬業であればAPI(Active Pharmaceutical Ingredients:医薬品有効成分)、バイクであればエンジンといった、付加価値の源泉となるインプットや装置を、輸入ではなくバングラデシュ人の手でつくれるようにならなければならない。

   Eco-Run Bangladesh 1
 ~エコラン全国大会の会場で見かけたWaltonのたて看板。レースに参加する学生チームにエンジンを無償提供するなど、Waltonはエコランの実現に大いに貢献した。なお、来年開催予定の第2回エコラン全国大会はHONDAとバングラデシュの共催で実施することも検討中だ~

 しかし、バングラデシュには、こうした大きな課題を乗り越えていく上で必要な資産がある。それは国全体の平均年齢が24歳という数字が示す大きな若い力だ。エコランに参加したような若者たちが、ものづくりの魅力を知り、その背景にある規律あるグループ・ワークや失敗から学ぶ創意工夫の大切さを全身で学んでいけば、この国は、その可能性を大きく開花できる。そして、日本人は、バングラデシュ人が自らの力で飛翔する上で大きな力となるパートナーとなれるのだ。バングラデシュの大学生とともに汗をかく大河原さんや、60年前にベンガルの大地で農家とともにあった日本人農業技術者たちが、その背中と行動で示したように。

  Eco-Run Bangladesh 3
~若い歓声が響くエコラン・バングラデシュの会場にはためく両国の国旗。大いなる感動と学びの機会を創ってくれた大河原俊弥さん、そしてバングラデシュの大学生の皆さん、本当にありがとう!~
バングラデシュ人と日本人の協働が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2013/03/26 18:52

バングラデシュが未来を切り拓くには何が必要だろうか? ~技術立国を目指して走り続ける若者たちの物語(その3)~

 先の見えない政情不安という暗雲が垂れ込めているバングラデシュに、久しぶりに光が差した。それは、真夏の太陽のように、真っ直ぐで、力強く、そして前向きな光だ。

 2013年3月15日。ひょっとしたら将来、バングラデシュの産業史に刻まれる記念日となるかもしれないこの日の空は、突き抜けるように青く、雲ひとつなかった。リキシャに揺られながら朝の街を駆ければ、からりとした風が清々しく体を撫でる。そしてぐんぐんと上がる気温。この日ダッカの最高気温は34度を記録した。そんな「春」真っ盛りの日に(バングラデシュの夏はもっと暑く、そして耐え難い湿気に支配される)「エコラン・バングラデシュ全国大会」がダッカの「ボンゴ・ボンドゥ国際会議場」の広々とした駐車場で開催されたのだ。

 エコランとは、「最も燃費の良い車両をつくる」ことを目標に、バングラデシュ各地の工業大学の学生たちがチームを作って車両を作成、ガソリン1リットルで何キロ走れるかを競い合う大会だ。

     Eco-Run 2013-1

 
   エコラン全国大会に至る経緯、及びエコラン-バングラデシュの火付け役である青年海外協力隊員、大河原俊弥さんのエコランに懸ける想いについては、以下の記事を参照ください。
 「バングラデシュが未来を切り開くには何が必要だろうか~技術立国を目指す若者たちの物語(その1)~」 
 「バングラデシュが未来を切り開くには何が必要だろうか~技術立国を目指す若者たちの物語(その2)~



 会場となった「ボンゴ・ボンドゥ(バングラデシュ初代大統領ムジウル・ラーマンの愛称)国際会議場」は、その名のとおり、国賓クラスを招いての国際会議を実施するために作られたバングラデシュの中でもっとも立派で規模の大きな施設。午前9:30の開会を前に会場に入ると、そこは既に大勢の人々で熱気で満ちている。そして、初のエコラン全国大会の実施を告げる巨大なバナーや協賛企業のたて看板が所狭しと並べられている。

 大会の方針は、バングラデシュの主要工業大学の教授陣、JICAスタッフ、そして協賛企業の役員で構成される運営委員会で決定、フルタイムのイベント・マネージャーとして雇われたバングラデシュ工科技術大学卒の優秀な若者が、大会実施に向けた具体的な段取りや運営を担ったという。会場で配布された立派な冊子をめくれば、招かれたゲストとして、JICAのバングラデシュ事務所長、日本大使館の参事官、そしてバングラデシュ政府の商業大臣、教育省事務次官など、そうそうたる顔ぶれが並んでいる。 
   
 「晴れ舞台」というにふさわしいこの場に、主役として参加するのは、バングラデシュ工科技術大学(BUET: Bangladesh University of Enginnering and Technology)チッタゴン技術工科大学(CUET)ラッシャヒ工科技術大学(RUET)イスラム技術大学(IUT)、ボリシャル職業訓練大学(BTSC)、そして軍の科学技術研究校(MIST: Military Institute of Science and Technology)の6校の若者たちが、チームを組んで作り上げた5台の四輪車両、10台の三輪車両だった。
 
 ふと、長い黒髪を掻きあげてヘルメットをかぶり、その華奢な体を四輪のエコラン・カーに滑り込ませた女子学生の姿に目が留まった。確かに見覚えがある。そう、昨年3月にダッカ郊外にあるイスラム工科大学のキャンパスで開催された試行ランを兼ねた予備選(Eco-run Demonstrative Trial Contest)で僕は彼女を見かけたのだった。
  
         Eco-Run 2013-4

   あのとき、チッタゴン技術工科大学の女学生である彼女のチームが作り上げたエコラン・カーは、エンジン・トラブルで走り出すことが出来なかった。調整は数時間に渡り、もうイベントも解散か・・・と思われたその時、唸り声のようなエンジン音とともに急発進したその車のハンドルを必死でさばき、イスラム工科大学キャンパスを一周したのが彼女だったのだ。走り終えた後の彼女の表情、そして、歓声を上げながら急発進した車を追いかけていったチーム・メンバーの躍動感に満ちた背中に、鳥肌が立つような感動を覚えたのが、昨日のようだ。

 そして、あれから1年という月日が流れたのだ。
 
 如何にしてエンジンの動力を無駄なく車軸に伝えることができるか?風の抵抗が少なく、軽い車体をどうデザインし、それをどのように具体的な形に落とし込むか?カーブを曲がりきることの出来る安定感をどうやって保つか?部品や道具はバングラデシュのローカル・マーケットで手に入るのか?そして、全体の予算を10万タカ(約10万円)の上限に押さえ込み、且つ、試行ランも含めて期限内にしっかり完成品を作り出せるのか?

 学生たちは、数々の難問・難関を、頭を働かせるだけでなく、工房の中で手を動かし、車体の下にもぐりこみ、ローカル・マーケットに足しげく通いながら、突破してきたのだ。、そんな努力と試行錯誤の結晶が、今、ダッカの春の陽光の下で輝いている。いよいよ、レースがスタートだ。

   Eco-Run 2013-3

 審判員が1リットルのガソリンを、エコラン・カーにすえつけられたシリンダーに注ぎこむ。レースは、ボンゴ・ボンドゥ国際会議場の駐車場を3周し戻ってきた車のガソリン消費量を競い合う。もちろん、最も消費量が少ない「エコな」車が勝者だ。

    Eco-Run 2013-2     

 拍手に包まれながら次々とスタートを切るエコラン・カー。昨年の試行ランの際は、なかなか動き出さないと思ったら急発進をする車や、カーブを曲がり切れずリタイアしてしまう車が目立ったが、一年を経た今日、スムーズにスタートを切る車の数が圧倒的に多く、金属音が触れ合うノイズやエンジンを吹かす音も少ないのには印象付けられる。そして、進化を遂げたエコラン・カーが広々とした国際会議場の敷地を回る姿を、静かに見つめる人物がいる。この巨大なムーブメントを牽引してきた大河原俊弥さんだ。
 
 3年前、バングラデシュ南部の地方都市ボリシャルで、勤務先だったボリシャル職業訓練大学の学生たちに、日本では歴史あるエコラン・イベントの興奮と可能性、そして、その先にある夢を語り、彼らの情熱に火を灯したのが出発点だった。その後、2010年12月にボリシャル空港の滑走路で開かれた初のエコランに参加できたのは、職業訓練校の学生がつくる2チームのみ、そして実際に走ることが出来たのは一台のみだったことは、以前の記事で触れた。そして、その後も、大河原さんの全力疾走は続いた。バングラデシュ全土を、船で、ローカル・バスで、そしてその両足で駆けずり回り、エコランにかける思いとビジョンを語り続けてきた大河原さん。そんな彼の背中にひきつけられ、共に走り出す学生たち、そして本気になって応援しようという教授陣の数は増え続け、ついにJICAやバングラデシュ政府も本格的に支援をするに至ったのだ。

    Eco-Run 5
 
 そして、今日、大勢の観衆の声援がこだまするボンゴ・ボンドゥ国際会議場で、純白の作業服に身を包み、白い帽子を深々とかぶってエコラン・カーが次々と目の前を駆け抜けていく様子を見守っている大河原さんは、今、何を感じてるのだろうか?その視線や姿勢、そしてアクションから学生たちに何を伝えたいのだろうか?まぁ、レースが架橋に入っている今は、感慨に浸っている暇もないだろう。
 
 ひときわ大きくなる歓声に我に返ると、ゴールに入ってくるライト・ブルーの車体が目に入った。車体とお揃いのライト・ブルーのTシャツの学生たちが歓喜の声をあげながら、今スムーズなゴール・インを遂げた車の周りに集まってくる。コックピットから立ち上がり、ヘルメットをはずしたのは、チッタゴン工科大学の彼女だった。思わず、彼女の元へと駆け寄っていく自分がいた。


 
 「おめでとう!すばらしい走りだったね!!昨年のイスラム工科大学でのイベントにも出ていたよね?」
 「ありがとうございます!!今回はちゃんと走れてよかったぁー。本当によかった。」
 「もしよかったら、少し話を聞かせてもらいたいのだけれど・・・なぜ、エコランに参加しようと思ったのかな?」

 突然の僕からの質問に、彼女は、息を弾ませながらこう答えてくれた。

 「コンセプトにすごく興味があったんです。車の速度を競い合うのではなく、燃費の良い車を作るって言うコンセプト。今のバングラデシュにとってすごく大事だと思ったんです。今、チッタゴンは大気汚染が深刻です。それに燃料も足りない。ガスの値段はどんどん高くなっていますよね。」
 「なるほど、確かにそうだね。ところで、エコランに参加している女子の数って少ないよね?男子ばかりのレースに参加するのは、抵抗はなかったの?」
 「逆ですよ。女子が少ないから参加したんです。私が参加するといったら、加わってくれた女友達もいましたし。来年からは後輩の女子ももっと参加すると思いますよ。」
 「ごめん、順番が逆になってしまったのだけれど、名前と学年を教えてもらえる?」
 「アルディーラ、チッタゴン工科大学の3年生です。」
 「3年生なんだ。もうすぐ就職活動も始まるんじゃない?将来はどうしたいの?」
 「そうですね、バングラデシュの国内の企業に就職して、もっと色々なものづくりに挑戦したいです。


 まぶしい笑顔を残して、彼女は仲間の元に駆け戻っていった。相変わらずゴール付近で淡々と記録をとる大河原さんの姿がある。彼の思いは、ものづくりの楽しさを知り、試行錯誤とグループワークの大切さを学んだ、アルディーラのような「技術立国バングラデシュ」の担い手に、確かに届いているようだ(つづく)。


バングラデシュ人と日本人の協働が織り成す物語 | コメント:(2) | トラックバック:(0) | 2013/03/19 19:51

破壊されたコミュニティの再生に向けて、自分は何が出来るだろうか?

 東日本大震災から2年が過ぎた。僕はあの日、あの時、バングラデシュの農村にいた。その年の夏からの世銀ダッカ事務所での勤務に向けた面接と新しい職場の見学のために、1週間の出張の機会を得てバングラデシュに初めて来ていた、その週末に震災が起こったのだ。

 電気もガスも無く、シャワーは井戸水という農村の家にホーム・ステイをしていた僕の耳に、震災・津波のニュースを届けたのはインターネットだった。バングラデシュでは国中殆どどこでも携帯電話がつながるが、携帯の電波が届くところでは、インターネットもキャッチできるのだ。「グラミン・フォン」の端末をつけた友人のラップトップに映し出された信じ難い映像に釘付けになったこと、翌朝村の港に行くと、地元紙の一面が津波に襲われる東北の写真だったこと、そしてダッカのホテルに戻ってCNNをつけると福島第一原発の深刻な状況が映し出されていたこと・・・今でも昨日のことのように思い出される。

  3.11 news paper
 ~2011年3月12日のバングラデシュ地元紙の一面。大勢のバングラデシュ人が日本の状況を案じ声をかけてくれた。日本国内のバングラデシュ人、あるいはバングラデシュからも、多くの支援が寄せられたことは記憶に新しい~

 そして、あれから丁度2年が過ぎようとした先週週末も、僕はバングラデシュの農村に向かっていた。でも、とても残念なことに、今回僕が友人と向かっていたその村は、美しい田園風景と人々の屈託のない笑顔に満ちた、いつものバングラデシュの村ではない。その慎ましい生活の基盤を徹底的に破壊され、信仰の拠り所である寺院までも失った人々が悲しみの中で途方にくれている、そんなコミュニティなのだ。人々の生活と心を破壊し、絶望をもたらしたのはしかし、天災ではない。宗教の名を借りた狂信的な権力闘争に心を奪われた過激派の一団によるマイノリティへの攻撃という、受け入れ難い人災なのだ。
 ダッカから南へ約150キロにあるNoakhali(ノアカリ)県のBegumganj Upozila(郡)のRajganj Union(村)

 この村の名を僕の心に刻みこんだのは、独立戦争時にパキスタン軍による蛮行に加担した戦犯の一人として法廷に立たされていたジャマティ・イスラム党の副党首でありイスラム聖職者でもあるDelwar Hossain Sayeedi(デワル・ホサイン・サイーディ )に死刑の判決が下った翌々日の新聞記事だった。それは、リーダーに対する死刑判決に怒りを爆発させたジャマティ・イスラム党とその学生団体であるジャマティ・シビールと見られる一団数百人が、何の関係もないこの村のヒンドゥー・コミュニティに襲いかかり、鉄パイプで家々や寺院を破壊した挙句火を放った、という信じがたい内容だった。

 記事を読み終えた僕は、「あぁ、この国はついにここまで来てしまったか…」と暗澹とした気持ちに浸りながら、次の記事に目を通し、そして新聞を脇に置いた。

 最近毎日のように繰り広げられるホルタル(暴力行為を伴うデモ)…銃弾や手投げ弾が飛び交うデモ隊と治安維持部隊との衝突の様子、炎に包まれるバス、そして多数の死者・重軽傷者の数字が踊る新聞やニュース。そしてただひたすら「早く落ち着かないだろうか…」と祈り、「これはバングラデシュ人同士の問題。外国人の自分が出来ること、すべきことは何もない」と傍観者を決め込む自分。

 なにより、日々様々な情報収集に努め、それを解釈しながらも、そうした情報やニュースに「反応する力」を失いつつある自分の右脳と心。

 今の僕は、罪のないマイノリティへの攻撃という、途方もなくショッキングな記事ですら、二次元に刻まれた活字の一群として左脳によりプロセスしてしまうのか!!

 なんだか落ち着かない気持ちになってきた。

 もう一度新聞を開いてみる。

 そこには、焼け落ちた家の前に並ぶ子供たちの写真がある。彼らの表情を見ている自分。そして、ベンガル人特有の、大きく澄んだ目で、彼らも、僕を見ていた

 Hindu Community 
 ~暴徒により破壊された家の前に並ぶヒンドゥー・コミュニティの子供たち(写真出展:Daily Star)~

 その瞬間、僕の心と右脳が何かを主張していることに気付いた。

 「この人たちの声に耳を傾けたい。一言だけでも、声をかけたい。」

 「外国人だから何も出来ないだって?何のために仕事で使いもしないベンガル語を勉強し続けてきたんだ?」

 「3.11の津波の後だって、そうだったじゃないか。あの時だって自分は、何か特別なことが出来る訳ではないけど、いてもたってもいられなくなって、東北まで行ったじゃないか。」

 「とにかく、行こう。あの人たちに会いに行こう。彼らの声に耳を傾け、破壊された生活を直接自分の目で目撃し心に刻もう。そしてあの人たちの痛みを共有し、出来ることなら和らげるために、自分が何が出来るか、彼らの目の前で考えよう。」


 それから4日後、3月8日金曜日の午後、僕は友人とともに、その村を訪れていた。村に入って最初に目にしたのは、トタン板の壁と屋根、そして竹の柱で作られた掘っ立て小屋の数々だった。村の人の話では、撃があった2-3日後に、政府が被害者に対して小屋を作る材料を支給をしたという。竹の柱を地中に埋め込むためにスコップを振るっていた土方のお兄さんに尋ねると、政府に雇われて仕事をしているとの答えが返ってくる。バングラデシュ政府の思いがけないすばやい対応にほっとするも、被害者の一人であるカルティック・デシュさんの案内で、彼の家-かつて家だったトタン板で仕切られた空間-に入ると、言葉を失ってしまった。

 そこで目にしたのは、焼け焦げた僅かな食器と政府から配給されたというお米、そして真ん中に敷かれたゴザの上でお昼寝をしている3ヶ月の赤ちゃんだった。

  Noakali2
 
  郡病院で医療事務に従事しているというカルティックさんは、攻撃があった時も仕事に出ていたという。そして、噂を聞きつけて駈け戻ったカルティックさんを待っていたのは、焼け落ちた我が家だった。

 一方、暴徒がコミュニティに乱入してきたのを見て、留守番をしていた今年75歳のおばあちゃんと奥さんは、赤ちゃんを抱えてとにかく必死に逃げたという。 

 「結婚してこの村に住んでから、かれこれ50年になるけれど、こんな目にあったのは初めてだよ・・・」  

 「赤ちゃんも生まれたばかりなのに、こんな目にあって。怖かったでしょうね・・・」と声をかけるとおばあちゃんは「まぁ、この子はまだこんなだから。何だかよく分からなかったんだと思うよ。泣いたりもしなかったしね。」と淡々と応える
 
 次に会ったのはルンパさん。一人娘のコタモニちゃんと二人で暮らす母子家庭だ。 

   「この子は今年5歳になったばかりなんです。今回のことで、服も、食器も、ベットも何もかもなくなりました。政府からは一家庭1万タカ(約1万円)程度のお金が支給されたようなんですが、私たちはそれももらいそびれてしまった。政府の方が村に来たときに、たまたま別の場所にいたので、被害者リストに載せてもらい損ねたんです。政府の人はまた来るかもしれないし、こないかもしれない。何も分かりません。この子をこれからどうやって育てていったら良いのかも、分かりません。」
 
 Noakali3
 ~ その時起こった恐ろしい出来事とこれからの生活の不安について話すルンパさんと一人娘コタモニーちゃん ~

 高齢のおばあちゃんと女性、そして生まれたばかりの赤ちゃんが留守番をしている家や母子家庭の家を攻撃して火を放つって、まったく理解不可能だ。政治は人をここまで狂わせてしまうのか。あるいはもっと別な何か大きな力が働いているのか。 ここでは全部で18の家が焼かれ約100人の人々が、こうした状況の下にあるという。

  村の人々が放火された寺院にも案内してくれた。

 Noakali4
 
  破壊された神々を前に、ただただ、胸が痛む。このコミュニティの近辺にある6つの寺院すべてが破壊され焼かれたそうだ。そして、自らの力ではまったくコントロールできない突然の暴力にさらされ、筆舌し難い苦しみのふちにある人々は、バングラデシュの中で、ノアカリ県ラジゴンジ村だけではない。報道によれば、シレット県、ガイバンダ県、チッタゴン県、コックスバザール県、そしてニルファマリ県など、バングラデシュのあちこちの地方都市農村で、ヒンドゥー教徒のコミュニティが「戦犯」への死刑判決を期に激昂した暴徒によって破壊され、焼かれているのだ。

 正直、どう声をかけていいかもよく分からなかった。何かの役に立ててもらおうとある程度まとまったお金をポケットから引っ張り出すも、それをどうやって配分したらよいかすら分からず、混乱状態だった。でも、そのコミュニティの人々は、僕の気持ちを受け取ってくれた。

 「お昼ご飯まだなら、食べていきなさい。え、要らないって?それなら、せめてお茶でも飲んでいってくださいな」

 政府から配給された僅かな食べ物で日々を乗り切っているそんな人々からかけられる信じられないような言葉に、胸を熱くしながら、僕らはラジゴンジ村をあとにした。そして、車に揺られながら感じ、考えた。

 バングラデシュはしばしば「穏健なムスリム」と称される。この国の9割以上を占めるイスラム教の教えを大切にする殆どの人々は、自制心と寛容さ、そして優しさに満ちている。また、バングラデシュの最大の資産が、宗教の違いを超えた一体感とそれが生み出す豊かな社会資本であること、その一例として、たとえばマイノリティのヒンドゥー教徒の最大の祭典である「ドゥルガ・プジャ」が国民の祝日であり、多くのイスラム教徒もその祭りを楽しむこと、同じくマイノリティのクリスチャンが大切にするクリスマスも祝日であることは、このブログでもたびたび紹介してきた。また、バングラデシュの小中学校の必修科目である「宗教」の授業は、多数派のイスラム教だけが教えられるだけでなく、ヒンドゥー教徒やキリスト教徒、あるいは仏教徒の生徒がいれば、別なクラスを設けた上で、別な先生がしっかり受け持つことも、バングラデシュという国民国家が、国民それぞれが大切にする信仰心を尊重している証拠と解釈できるだろう。中東等の多くのムスリム国家を苛むテロや暴力と、この国が無縁であり、どこへでも安心して出かけられる体感治安の良さを誇っていたのも、こうした寛容さがあってこそだ。

 しかし、戦犯問題に端を発する暴力と怒りの連鎖と拡大は、そんなバングラデシュの美徳と強みをも破壊してしまったのだろうか・・・

 いや、そんなことは決してないはずだ。

 この国には、多様性と寛容さと、宗教や文化の違いを乗り越えて連帯することを大切にする大勢の人々がいるはずだ。そして、もちろん、この国の国境を越えたその先にも。
 
 そうだ!そんな人々の気持ちを集めて、今日出会った人々のもとへもう一度戻ってこよう。あるいは同じような苦しみの元にある人のところに、みんなの気持ちを届けに行こう!

 「大丈夫です。大勢の人が、皆さんのことを案じています。バングラデシュの多くの人々が、あるいは国境を越えたその先でバングラデシュの未来を案じる多くの人々が、皆さんが元の生活と社会との絆を取り戻してほしいと願っているんです。皆さん、一人じゃないんですよ」って伝えに行こう。

 ちょっと色々不便で腹の立つことも多いけれど、人懐っこくて陽気なベンガル人、途方もなく大きなビジネス・ポテンシャル、あるいは創意工夫に満ちたソーシャル・ベンチャーといった魅力に満ちたバングラデシュが、 一日も早く本来の輝きを取り戻すことに、少しでも貢献できるかもしれない。もうこの際、外人とかベンガル人とか日本人とか、関係ないじゃないか!バングラデシュが好きなら、それで十分だ!
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(1) | トラックバック:(0) | 2013/03/12 03:27
 | ホーム | Next »

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。