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ダッカの子供たちの未来は明るいのだろうか?

      ダッカに広がるスラム

  先週末、ダッカ市内をあちこち散策する小さな旅にでた。真っ先に向かったのは滞在先のホテルの程近い場所にあるスラムだ。Bonani(ボナニ)という外国人や富裕層の居住区と接した地区にトタンで作った家々がひしめくスラムが広がっている。ダッカの人口約1,400万人のうち約28%、336万人が貧困層であり、その多くが農村から職を求めて、あるいは洪水等で土地を奪われてダッカに移り住んできた人々だと言われる。スラムに住む人々は、リキシャワラ(自転車式の人力車のこぎ手)として、あるいは企業の清掃員や富裕層の家庭のお手伝いとして、あるいはバングラデシュで盛んな縫製工場や皮革工場の働き手として、日々の生計を立てている。

 言うまでもなくスラムの住環境は劣悪だ。まず安全な飲み水がなかなか手に入らない。ダッカの超過密な人口密度と高温多湿な気候は、世界中の細菌学者達を惹きつける病原菌たちの宝庫だ。汚染された水を飲み下痢による脱水症状で多くの5歳以下の子供たちの命が日々奪われている。ポカリスウェットさえあれば救える命だ。

 トタンで作られた長屋の中に入ると、豆電球が天井からつるされ、TVがある家もある。しかし、ダッカの電力供給は実に頼りない。バングラデシュの国全体で電気の供給能力が約4,120メガワットに対し、需要は6,000メガワットを超え、日々増え続ける。当然、停電は日常茶飯事で、スラムは夜間は暗闇に包まれる。夜は、子供たちにとって、本を読んだり勉強をしたりする時間にはなり得ない。また、多くの子供たちが、初等教育、中等教育を終えることなく、親の仕事を手伝いなどに精を出すことになる。これにより子供たちの目の前に広がっていたはずの無限の可能性は、彼らの親たちと同様、閉ざされてしまう。

 このように挙げだせばキリがない位の、先進国で育ったものには想像すら出来ない困難な状況の中でしかし、スラムで出会う子供たちの笑顔の素晴らしいこと!


    スラムでであった子供たち

 覚えたての英語で人懐っこく話しかけてくれた写真中央の男の子はロシュン君。迷路のようなダッカのスラムを案内してくれ、彼の家にも連れて行ってくれた。
 
 「将来の夢は?」とたずねると「検事になりたい!」

 そう僕に答える強い視線は確かな正義感を思わせる。

 はだしで元気に駆け回る子供たち、はじける笑顔、好奇心…東京ではお目にかかれない人間らしい表情、温かさに、思わず「ここには先進国が物質的な豊かさを追求する中で忘れてしまった精神的な豊かさがある」という「気付き」に飛びつきがちだ。確かにスラムはコミュニティのつながりが息衝く人間臭い空間であるともいえる。
 
 しかし、本当にそうした「気付き」の上に自分の気持ちを落ち着かせてしまって良いものだろうか。
 それは確かに一面で正しいかもしれないが、今目の前にいる人々と、日本からやってきた自分との間に存在する圧倒的な物質的豊かさの差を認識した上で、且つ、観察される精神的な豊かさが、物質的欠乏を補いうる程強いものだと言う確信を持った上での気付きなのだろうか?

 目の前の子供は、今は活き活きとした表情をしていても、これから先ずっと、物質的欠乏と不確実性の中で、か細い選択肢を頼りに生き抜かなければならないという現実と直面している。また、彼らに、かつて(ひょっとしたら昨日)、亡くしてしまった弟たちや姉たちがいる、という現実もあろう。昼間は人間臭いコミュニティのぬくもりも、夜には麻薬売買や売春の斡旋の温床と化すという現実もあるかもしれない。

 こう想像した時、仮に日本にはない精神的豊かさが存在するとしても、スラムが子供たちの明るい未来を紡ぐことの出来る場所とは到底言えないのではないか。

 そして、バングラデシュには、こうした厳しいスラムで暮らすことすら、許されない子供たちも大勢いるのだ。底知れぬ貧困の深みは、僕の想像力を超えて、どこまでも続いている…

 

 ダッカの路上で今を生き抜くストリート・チルドレンたちに、少しでも明るい未来を創っていこうと、バングラデシュの若者と共に7年も前から活動を続けている日本人が居る。

 ベンガル語で「一つの絆」を意味する「エクマットラ」というNGOを創り、育ててきた渡辺大樹さんだ。

 大樹さんは大学時代、ヨット部の海外遠征で訪問したタイで偶然バスの車窓から目にしたスラムの前で自分を見上げる少年と目が合った時、雷に打たれたような疑問に心を貫かれたのだと言う。

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 ‘なぜ俺はこんな豪華なバスから彼を見下ろしているのだろう?'
 ‘なんであの子はあんなみすぼらしい格好で俺を見上げているのだろう?'
 ‘俺は人知れぬ努力に努力を重ね、この地位にまで登り詰めたと言うのか?'
 ‘あの子は怠け、人生を放棄してあの状態まで落ちぶれていったとでも言うのか?'

――‘いや違う、俺はたまたま日本で普通の家庭に生まれ、あの子はタイのスラムで貧しい家に生まれた。たったそれだけ。たったそれだけでついてしまうこの差。自分は自分次第でなんにでもなれた。気が遠くなるような選択肢が目の前にあったのだ。'
 ‘でもあの子は・・・。タイのスラムで生まれた瞬間にほとんど選択肢が残されていない。頑張っても、いくら努力しても抜けられない、まるで蟻地獄・・・。

 そしてそれから一年後、一年経ってもあのときの衝撃は消えるどころか日に日に大きくなり私を突き動かしつづけました。そして
「自分という一人の人間が存在したことで一人でも二人でもいい。子供たちが可能性を感じ自由に未来を夢見られることができたら。」
 そういう思いをもってやってきたのがバングラデシュでした。(以上、エクマットラのウェブサイトより引用)
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 バングラデシュに世銀職員として赴任することになった周囲に告げた時、僕が10年前に創り、育ててきた「官民協働ネットワークCrossover21」の仲間から、「バングラデシュに行くなら、渡辺大樹さんという人が頑張っているから、是非会うとよい」と紹介され、バングラ渡航前からメールでつながることが出来た。

 そして、バングラデシュ到着後2週間目の8月12日の夜、大樹さんが運営するエクマットラの子供シェルターを訪問する機会を得た。断食月であるため、ムスリムは皆日の入り時間の18:30過ぎに一斉に「イフタール」と言う夕食を家族や友人と楽しむことは前回の記事で紹介したが、この日は、シェルターの子供とイフタールを共にすることが出来た。

     エクマットラのシェルターでイフタールをご馳走に
 このシェルターは、8歳から14歳の子供たち約20名がスタッフと共に寝食を共にしながら学ぶ家のような場所だと言う。最初は僕もどうやってコミュニケーションをとればよいか分からず、緊張気味だったが、大樹さんに背中を押されながら「腕相撲大会」に参加すると、一気に打ち解け、大勢の子供たちが僕につかまったり、話しかけたり、引っ張ったりで大騒ぎに。寝室に案内してくれてお気に入りのおもちゃを見せてくれたり、デスクトップ・コンピューターのパワーポイントで書いた絵を自慢してくれたりとすっかり打ち解ける。こちらの習い始めのベンガル語と彼らの習い始めの英語での会話を楽しむ。

 ここで暮らす子供たちは経済的に困窮するシングル・マザーの家庭出身であったり、家庭内で暴力を受けたりと言った理由で、スラムに居ることすら出来なくなってしまったのだ。そういう子供たちが、ジャングルのようなダッカの路上で生き残るために、麻薬の販売や売春などに手を染めて落ちていってしまわないように、そして彼らをバングラデシュ社会と一つの絆でつなぐための家を提供しているのが、エクマットラだ。エクマットラは、子供たちへの支援の提供と併せて、バングラデシュそして日本の社会に対し、バングラデシュのストリート・チルドレンの窮状を訴えるための啓蒙活動も展開しており、その一つが、「蟻地獄のような街」という映画だ。

  蟻地獄のような街

 農村の生活を捨て、生き延びるために僅かなお金を握り締め大都会ダッカに足を踏み入れた主人公の少年ラジュが、子供を搾取し、無用になると殺すことさえ厭わない蟻地獄のような街の中で苦闘するという、事実を下に描かれた映画だ。これを見れば「バングラデシュは貧しいが、精神的には豊かだ」などと呑気なことを炯炯と口にするのは憚られるようになるだろう。 

 エクマットラは現在、ダッカから北に170キロほど離れたマイメイシン県ハルアガットに購入した東京ドームのグランド分に相当する土地に、シェルターを卒業した子供たちが、自立のための技術を身につけるための「エクマットラ・アカデミー」を建設中だ。

 思い一つでバングラデシュに乗り込み、語学を勉強するために通ったダッカ大学で出会った同志達と、エクマットラを生み育ててきた大樹さんに、同じ日本人として誇りを覚え、またそのパッションと行動力に感銘を受けた。

 翻って自分は世界銀行の職員という立場で、世界中から集まる人的・金銭的・知的なリソースを活用して面的な変化を齎し得る立場に居る。その立場を、真に効果的に使っていけるのか、今日も冷房も効かないシェルターで子供たち明るい未来のための尽力している大樹さんやその仲間、そして子供たちに恥ずかしくないパッションとアントレプレナーシップ、強さと優しさを持って仕事をしているのか?

 エクマットラとの出会いは、自分のバングラデシュでのこれから仕事をしていく上での北極星のような指針を、自分の胸に刻んでくれた。
    エクマットラの皆さんと
 
 
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バングラデシュ人と日本人の協働が織り成す物語 | コメント:(3) | トラックバック:(0) | 2011/08/28 22:46

自分は付加価値を齎すことが出来るだろうか?

     世界銀行ダッカオフィスの外観
    (職員約180名を擁する世界銀行バングラデシュ Country Officeの外観)
 
 7月31日の夜にバングラデシュに到着してから約1ヶ月が過ぎようとしている。携帯電話の入手、家探しと大家との契約交渉、銀行口座の開設、家具の買い込み、ウェブ環境や世銀のe-mail accoutのセットアップ、名刺や職員証の作成、そのほか行内手続きのためのペーパーワークなど生活とビジネスの基盤確立を亀の歩みで右往左往しながら進めてきた。

 幸い、8月は世銀グループ全体が活動のペースを最も緩やかにする一月。ワシントンの本部も含め多くの職員が休暇(しかも最短で2週間から長い人では一ヶ月!)をとっている。また、バングラデシュでは8月2日から約1ヶ月のラマダン(断食月)期間中であり、クライアントであるバングラデシュ政府職員や世銀の同僚の多くを占めるムスリムは、日の入り(18:30頃)から始まる「イフタール」と呼ばれる夕食を家族や友人ととるため、16:00過ぎには退社をし始め、17:00頃にはオフィスはひっそりとした雰囲気となってしまう。もちろん、オフィスの外は、皆がいっせいにイフタールの夕食に間に合うよう16:00過ぎに帰宅するため、いつも以上に激しさを増す交通渋滞に支配されているのだが。

 バングラデシュという国はもちろん、世銀と言う組織においても全くの新参者、右も左もわからない自分にとって、この穏やかに流れる時間はありがたくもあるが、得体の知れない生暖かいモヤの中で、物事の入り口を手探りで探しているような、もどかしい時間でもある。

 そもそも、オフィスが静かなのは8月という時期のせいだけではない。写真のような個室形式の職務環境のお陰だ。しかし、これが自分にとっては何とも慣れない。静か過ぎる!!

      静かなるオフィス

 社会人になってから10年、これまで僕は、課長以下、大勢の職員が空間を共有し、相談事があればすぐに隣の上司に尋ねることが出来、お願い事があれば、目の前の部下に何時でもお願いが出来るような、他方で、隣の同僚が電話で話す声や、ミーティングの内容、コピー機がせわしなく働いている音などに支配されている大部屋で仕事をしてきた。こうした空間で仕事をすることに慣れきっていた自分にとって、この個室の職務環境は、周りで一体何が起こっているのか、同僚がどのようなスケジュールで動いているのか、上司はどのような表情で何を考えているのか、全く分からず、自分だけが隔離されているような錯覚を覚えてしまうのだ。

 世界銀行という組織は、全世界で1万人もの職員を擁しているが、しばしば「個人商店の集まり」と表現される。教育、農業、インフラ、栄養、気候変動、水資源管理、保健・公衆衛生、エネルギー、法務、財務、投資環境整備などなど、多様な分野で博士号を有し、様々な機関を渡り歩いてきたその道の専門家がひしめく人間集団なのだ。

 世銀が融資やコンサル業務などのプロジェクトを実施する時、例えばバングラデシュでソーラー・パネルを活用したエネルギープロジェクトを展開するときには、Senior Energy Specialist(兎に角皆、何かのSpecialistなのだ)が、LeaderとしてTask Teamを形成する。Task Teamの面々は、同じくエネルギー分野の専門性を若手の職員(Energy Specialist)数名、及び、法務・財務や資材調達の専門家等6-7名で構成される。このTask Teamが、相手国政府の職員と二人三脚で、プロジェクトを回していくことになるため、グループ・ワークは求められるものの、各自が与えられたタスクを、期限内に、求められる水準のクオリティで作り上げさえすれば、そのやり方やペース、プロセスは個人の裁量に委ねれることになる。

 このことは、到着後すぐに、同じチームで働く、Country Director(世銀バングラデシュ支店の支店長)の懐刀の一人、アルゼンチン人のリザンドロから聞かされた助言にも良く現れていた。


 「Yoichiro、出勤時間は何時でも構わないし、何時に帰ってもいい。出席が必要なミーティングや打ち合わせがないのなら家で仕事をやっていたって構わない。ノート・パソコンは持ち帰り可能だし、イントラネットにも、共有フォルダーにも必要なSecurity Clearanceをやればつながるし、メールも送受信できる。ネットがつながるならジャングルで仕事していたっていいんだ。」

 「僕らのボスであるCountry Directorは大雑把な指示を出すけれど、それをどういうやり方でどのくらいのペース配分でやるかは、君が判断することだから。ちゃんと結果を出せば誰も細かく干渉したりはしない。」

 僕が、これまでの日本の職場環境について触れつつ、どうやって皆情報共有をしているのかを聞くと

 「へぇ、君はそんな環境で仕事をしてきたのか!隣の同僚の電話の声が聞こえるって!?That's impossible!!そんなところで働かされたら僕は発狂するよ。プライバシーは重要だ。必要な情報はメールで共有すればよい。あと、個別に相談したいことがあれば僕も含めて、皆、オープンだよ。忙しいときには「ちょっと後で」と言われるかもしれないけれど、相談されることについてイヤな顔をする人はいないと思うよ。」

確かに、相談すると皆快く応じてくれ、一を聞くと10くらいの内容をドット返してくれる同僚も多い。しかし、話を聞いて戻ってくるとまた静かで孤独なオフィス。逆にこれに慣れきってしまうと、将来日本の大部屋に戻ってから、先ほどの同僚のように「発狂」してしまうのではないだろうか…。不安は募るが、様々な外部環境に適応して、その場その場のやり方、環境で自分のベストを出していけるようにするために、こうしたAwayでの他流試合を望んで乗り込んできたんじゃないか、留学の時だってそうだったじゃないか、自分に言い聞かせる。



 ちなみに、専門家集団で成り立つ組織が陥りがちな問題が「Silo Problem」である。「Silo」といっても、牧場に立ってる円筒の倉庫は世銀のオフィスにはない。まるで「Silo」の中にこもって居る時のように、周りが見えなくなり、他の部門と連携をとらず、各部門が部分最適に陥っていく、つまり縦割り主義、Sectionalismを「Silo Problem」と表現するのだ。

 そして、僕がCountry Directorの補佐官の一人と加わっている、Country Management Unit(CMU)というチームのミッションこそ、このSilo Problemをなくし、世銀がバングラデシュの開発のパートナーとして、各セクターの部分最適に陥らずに効果的に支援を展開できる集団としていくことにある。具体的には、
 ・中期(4年間)の世銀のバングラデシュ支援戦略(Country Assitance Strategy)の作成、
 ・戦略に盛り込まれた目標、例えば、「バングラデシュの子供たちが中学校を卒業できる率を2006年の38%から2014年には50%にまで改善する」を実現するために、各プロジェクトが達成するべきIndicato(中間指標)の作成やモニタリングの仕組みの構築、
 ・NGO等、第三者の視点を活用した、世銀のプロジェクトの評価の実施
等が挙げられる。

 いずれも、効果的に仕込めば各セクターの担当チームがSiloを超えて、全体の視点からプロジェクトを実施していく、あるいは、business as usualでセクター毎にプロジェクトを回していたのでは見えてこない気付きを共有していく一助となり得る。一方で、仕込みに失敗すれば、単に手続きやペーパーワークだけが増え、ただでさえプロジェクトを回すのに忙しいセクターの同僚たちの負担を付加価値なく増やすだけに終わる、と言うことになりかねない。

 自分は、この専門家集団の中で、果たして付加価値を齎すことができるのだろうか??

 まずは、自分自身が、この静かなオフィスという名のSiloにこもり過ぎず、各セクターの同僚から、彼らがどのようなイシューに直面し、どのようなニーズを抱えているのかじっくりと耳を傾ける、さらには世銀以外でバングラデシュの開発に汗を流している、他の機関とのネットワークを広げる、ということが効果的な仕込みに欠かせないのではないか。

 このように意気込み、同僚たちの部屋を回るものの、多くのセクター担当者が夏休みでオフィスにおらず、あるいは、断食明けの夕食のためにさっさと帰宅してしまうのだ…

 「Yoichiro、バングラデシュで開発の仕事をやるにはPatience(忍耐)が必要だ。Patienceだよ…。まぁ9月になったら、物事が急速に回転し始めるから、今は焦らずに。」

 リザンドロが打ち合わせの最後に僕にくれたアドバイスを胸に抱きつつ、バングラデシュでの最初の一月が終わろうとしている。
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2011/08/27 18:45

8月15日は喪に服すべきか、国民総出でお祝いをすべきか?

 今年もせみの鳴き声の深まりとともに終戦記念日を迎えた。と言っても自分はダッカに居るからせみの声の代わりに、間断なく鳴り響くクラクションの音を聞かされているのだけれど。
 
 ところで、今朝のダッカのジャングル・ロードは、いつになく車の数、種類ともに少なく、僕はスリルもフラストレーションも感じることなく世銀事務所に到着した。アシスタントのDipaに、一日の滑り出しが実に快調であったことを告げると、「あら、それは休日だからでしょ」と至極説得力のある解答を頂く。「では、今日は何を祝う休日なのだろう?」そんな素朴な疑問に答えてくれた彼女との会話の中で、僕は8月15日はバングラデシュにとって色々な意味で不幸な一日であることを知ったのだった。

       Bangabandhu(バングラデシュの友)

 写真の人物は、Sheikh Mujibur Rahman(シェイク・ムジブル・ラーマン)。8月15日は、Bangabandhu(ボンゴ・ボンドゥ(ベンガル語で「バングラデシュの友」の意味)という愛称で親しまれ、半年にわたる熾烈な内戦の末、1971年12月にパキスタンから独立を勝ち取ったバングラデシュ独立の父であるラーマン初代首相の命日なのだ。ボンゴ・ボンドゥはバングラデシュの現与党「アワミ連合」の党首であり現首相、Shiekh Hasina(シェイク・ハシナ)首相の父上でもある。ちなみに、ハシナ首相は運が強いことで知られている。過去、数度にわたる暗殺計画をその強運で切り抜けてきたからだ。その最初の暗殺計画が1975年8月15日なのだ。

 36年前の今日、ダッカ中心部に位置する首相官邸に一団の軍人が戦車とともに乗り込み、ボンゴ・ボンドゥとその妻、3人の息子たち、警備員やお手伝い等、官邸に居合わせた全員を惨殺したのだ。ハシナ現首相は、たまたま妹と共に西ドイツに滞在中であったために、凄惨な暗殺劇を逃れることができた。

       Sheikh Hasina現首相

 8月15日はそんな非業の死を遂げたバングラデシュ独立の父であり、また現首相の父上でもあるボンゴ・ボンドゥを追悼する日なのだ。

 ところが、2001年から2008年までの間、8月15日は喪に服す日ではなく「国民総出でお祝いをする日」だったそうな。8月15日が日本人にとっては戦没者を追悼する終戦記念日である一方、韓国人にとっては日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節」であるといった風に、国民がその記憶と共に抱く物語の相違は世界中にありそうなものだが、バングラデシュという同じ国でこうした“ねじれ”が生じているのは何故か?2001年から2008年まではバングラデシュは別な国民国家だったとでもいうのか?

 8月15日を「お祝いの日」としたのはKhaleda Zia(カレダ・ジア)。彼女は2001年から2008年まで首相を務めており、現在は野党第一党のBNP(Bangladesh National Party)の党首である。バングラデシュが二代続けて女性首相を輩出していることには新鮮な驚きを感じるが、8月15日との関係でより驚くべきは、ジア首相が就任直後に
 「8月15日は“実は”私の誕生日なのです。なので国民皆で祝いましょう」
というメッセージを送ったことだろう。

      Khaleda Zia 前首相
 
 二大政党がNegative Campaignを繰り広げるのは古今東西ありふれた光景かもしれないが、何も独立の父の命日を自分の誕生日にしてしまわなくても宜しいのではないでしょうか…と誰しも首をかしげるのではないか。

 しかし、この8月15日を巡る「ネジレ」は、バングラデシュの開発の成果を奪う根深い政治の確執の氷山の一角なのだ。

 1975年のボンゴ・ボンドゥ暗殺は、ボンゴ・ボンドゥとともにバングラデシュを独立に導いた軍の英雄Ziaur Rahman(ジアウル・ラーマン)陸軍参謀総長が計画したものと言われている。そして、ボンゴ・ボンドゥ亡き後、二代目首相となったジアウル・ラーマンは、実は前述した前首相、現野党第一党BNPの党首であるカレダ・ジアの夫なのだ。

            Ziaur Rahman

 しかし、二代目首相となったジアウル・ラーマン自身も1981年に反対勢力であるアワミ連合(つまり、ボンゴ・ボンドゥとその娘、シェイク・ハシナ首相を支持するグループ)の一派の手により暗殺されてしまう。こうしてみると、バングラデシュの二大政党である「ハシナ女史率いる現与党アワミ連合」と、「ジア女史率いる現野党BNP」との間の争いが、政策的な違いを超えた、一族の命運を掛けた血で血を洗う争いであることがわかる。

 例えば両党共に、下野すると、時の与党を批判するために、しばしば、支持者を動員して「ホッタール」と呼ばれるゼネストを決行する。ゼネストと言っても、単に公共交通機関や公共機関がストップするだけではない。竹やりや火炎瓶で武装したデモ隊と警官隊が衝突しけが人が続出、死者も出る他、火事場泥棒よろしく、略奪や破壊行為も発生する。ダッカの経済活動は中断を強いられ、国際機関の職員や外国人は外出をすることすら難しくなる。バングラデシュへの経済的な損失は計り知れない。

 また、2004年8月には、当時野党だったアワミ連合の政治集会に手投げ弾が複数投げ込まれ、アワミ連合の幹部を含む24人が死亡した他、大勢のけが人を出すテロ行為があったが、なんとその首謀者は、警察や軍の幹部、及び当時与党だったBNPの幹部だったと言うから、ただ事ではない(政権主導のこのテロ行為はハシナ女史をターゲットとしたものだったが、この時も彼女は無傷で難を逃れた。全く強運の持ち主である)。

 ちなみに、8月15日を突然自分の誕生日にしてしまうジア前首相に呆れた国民も多かろうが、同じようなことはアワミ連合が政権を取っていた2001年以前にも起こっている。以下の写真は、国会議事堂に程近い場所にある二代目首相ジアウル・ラーマンを追悼する公園だ。

     二代目首相ジアウル・ラーマンを追悼する公園

  写真手前に見える立派な橋を渡った先にジアウル・ラーマンが眠る墓があるのだが、実はこの橋、公園が設立された当初は墓を囲むお堀に浮かぶ木製の橋だった。ところが、政権をとったアワミ連合が、政敵(つまりカレダ・ジア女史)が「夫の墓参りを出来ない様に」つり橋を撤去してしまったのだ。その間、ジアウル・ラーマンの墓は文字通り“陸の孤島状態”だったそうだ。その後、めでたく政権の座に返り咲いたカレダ・ジア率いるBNPは、真っ先に橋を修復し、今度は「簡単には撤去できないように」コンクリートの立派な橋を掛けたのだと言う。

 「8月15日は実は私のお誕生日だったの!」という子供じみたプロパガンダは、専ら、夫の墓参りへの道を撤去されたことへの腹いせだったのだろう、と言うのが、苦笑気味にダッカ市民が語るエピソードだ。

いずれにしても、それぞれ父親と夫を暗殺された二人の女性が率いる二大政党間の確執は、時に「ホッタール」という暴力的なゼネストとして、時に一貫性のない教育や都市開発政策として、またある時には目に余るネポティズム(縁故主義)や汚職として、様々に形を変えてバングラデシュの経済・社会開発に大きな影を落としている。かつてレーガン大統領は、「Government is not a solution to our problme. Government is the problem」と述べたが、その台詞がそっくりそのまま当てはまる国がバングラデシュだ。

 そして、日本や世銀を含むバングラデシュの開発のパートナーにとってのジレンマは、あらゆる意味でCapacityの弱い政府を通じて(政府に資金を渡して)支援を実施すべきか、あるいは、政府は横に置いておいて、自らの手で支援を実施するべきか、という問いだ。
 
 前者を選択すれば、円滑なプロジェクトの実施が期待できないばかりか、各国が拠出した貴重な納税者の資金を原資とする開発資金が、誰かさんのポケットに入るリスクが高まる。他方、だからと言って、後者の方法ばかりが採られれば、プロジェクト自体はうまく進捗するかもしれないが、何時まで経ってもバングラデシュ政府のCapacityは向上せず、自国が抱える問題に対する政府のowershipも高まらないだろう。バングラデシュの未来は最後はバングラデシュ人が構築していく他はなく、また、多大なproblemを抱える政府が改善されなければ、NGOや企業による現場の努力が水泡に帰すリスクは高まることを考えれば、後者の方法を採り続けるのも得策とはいえない。

 こうしたジレンマの中で、前者の方法、即ちGovernment Systemを通じて援助を実施しようとする世銀が直面する最大の課題とは、政府と着かず離れずの関係を保ちつつ、如何にしてバングラデシュ政府のOwership, Capacity, Integrity, 即ちGovernanceを向上させるか、ということになろう。

 8月15日というバングラデシュ政治の「ねじれ」を反映した休日は、流れが何時になくスムーズなダッカの街路とは裏腹に、スムーズには進まないバングラデシュの開発の現実を考えさせられるエピソードに満ちたものなのだ。
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2011/08/15 22:44

渋滞はどこから始まっているのだろうか?

 お盆を迎えた日本は毎年恒例の帰省ラッシュの只中にあるのだろうか。果てしなく続く中央自動車道の車列の中で、「列の先頭で止まっているのは、一体どんな車なのだろうか。運転手に『あなたのお陰で後ろが詰まって長蛇の列だよ!』と一声掛ければ一斉に動き出すのではないか…」などと考えていた小学生時代の夏休み。渋滞の始まりが、料金所、事故の発生、車線数の減少といった事柄であり、運転手に声を掛けてもどうにもならないことを知ったのは何時の頃だっただろうか。

 そんなその小学生の疑問を、30歳を超えた自分が再び悶々とダッカという街の中で繰り返している。「このありえない渋滞は一体どこから始まっているのか!」同じような疑問を多くのダッカ市民も抱いているのだろう。時として15分~20分も一ミリも前進しない車内で広げる新聞の紙面や、ちっとも後ろに流れていかない車窓から見える風景には、その答えを物語る幾つかのエピソードが展開されている。

  渋滞はどこから始まっているのか・・・


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☆ 「2003年から2010年までの8年間で、ダッカ市内で登録されている乗用車は約8万8千台から約17万台に、バスは約2,600台から約9,300台と2-3倍に増加した(出典;Bangladesh Road Transport Authority)。しかし、ダッカ市内及びその周辺の道路インフラはほとんど改善されていない。」
 - 例えば、道路のメンテナンスがなされていないため、街中の道路及び郊外とダッカを結ぶ幹線道路のあちこちに穴やひび割れができており、車のスムーズな移動の大きな妨げになっている。雨季には市内の路上がそこかしこで冠水する。
 - 交差点をまたぐFlyover(立体交差)はダッカ市内で三箇所しかなく、信号も機能していない。手旗信号で車をさばく警官がいない多くの交差点は四方八方からさまざまな種類の車が無秩序に押し寄せ、Chaosのレベルは上がれど、車が交差点を通過する時間が短くなることは決してない。

☆ 「渋滞で貴重な時間を奪われた多くの運転手が、いらだつ気分の中で少しでも早く目的地に着こうと、無謀な運転を繰り返し、それが事故につながる。」
 - 例えば、地方からダッカに入る幹線道路では、二重追い越しどころか三重追い越しが横行。巨大なトラックやバスが、対向車線をはみ出して(と言うよりも対向車線を殆ど占領しながら)爆走してくるのだから、遊園地のアトラクションよりもスリルあり。
 - ダッカ市内では「車線」というものは存在しない。あらゆる車が車線の中間をウロウロ、隙を見て、少しでも前に進む車列へと加わろうと争いあう。もちろん、ウィンカーを出すということはない。
 - リキシャやCNG(オート三輪)、オートバイが対向車線を堂々と逆走してくる。

☆ 「車検の制度が機能しておらず、また車両修理工場の技術レベルも低いため、車やバス、CNGの道のど真ん中で故障してスタックしている。」
 - バングラデシュ在住の日本が取りまとめた情報誌「ハロー・ダッカ」には以下のような不吉な注意書きが記されている。「修理工場は全般的に技術レベルが低く、加えて悪質な業者が多いのが実情。新しい部品やタイヤを古いものに換えてしまう、ガソリンを抜く、修理業者がドライバーにお金を渡し、車両オーナーへの請求を水増しする等は日常茶飯事。」
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       ダッカ市内を爆走するオンボロバス
(フロントガラスには大きなヒビが入り塗装は禿げ放題、まるで産廃処理場で拾ってきたようなバスがダッカの「ジャングル・ロード」の主役だ)

 ダッカの生活暦が長い世銀の同僚や日本人に聞くと、皆、口をそろえて、交通状態は年々、と言うよりも日々悪化していると言う。相次ぐ外国企業の進出やダッカ市民の所得の向上等により車の所有比率が上がっている他、毎年20万人~30万人規模で農村からダッカへの人々が移り住んで来ることによりバスやリキシャなどの交通量も激増している一方で、道路の拡張やメンテナンス、それを実施するための都市計画などのインフラ整備が全く追いついていないのだ。ちなみに、ダッカの人口は1990年の653万人から2010年には1,516万人とこの20年で約3倍に増加。2020年には2,200万から2,500万人に増加し、世界最大の人口を擁する都市となることが見込まれている(出典:World Bank)。

 こうした路上で現状において支配的な法とは、「声と図体が大いものが先を行く権利がある」というジャングルのルールに他ならない。間断なく鳴り響くクラクションはこのルールに皆が忠実に従っていることの何よりの証左。また、殆どの車が車体の前と後ろに鉄柱のバンパーを装備して、接触事故に備えている。このバンパー、車同士の接触事故なら本体に傷がつかずよいのかもしれないが、歩行者にとっては危険極まりなく、超徐行運転の車とのちょっとした接触でも命の保障はない。このようなバンパーの装着は当然違法だが、殆ど全ての車が装着しているため、それがルールとなる(バンパー装着済みの車と走でない車が接触すれば、大損するのは「法」を遵守している車であることは明らかだから)。
 
         
                バンパーで装備を固めるダッカの乗用車
  (車体の前方と後方をバンパーで固め接触事故に備えるダッカの車たち。歩行者との接触は考えないのだろうか…)

 ジャングル・ロードで支配的な法は、この国を支配しているあるドグマを体現しているように思えてならない。それは、「少しでも速く、安く、目的地にたどり着き、賃金をもらい、そして経済的に豊かになる」というドグマではないだろうか。遵法意識も公共財のメンテナンスも、人々の安全や安心も、騒音や大気汚染への懸念も、アニマル・スピリットの前には劣後するのだ。そして、「アニマル・スピリットばかりが支配的なジャングルは、持続的に発展していくことはない」ということに、ひょっとしたら誰もが気付いているかもしれないが、そこに有形・無形の公共財を提供するべき政府のcapacityが弱いことも周知の事実であることから、今日もダッカのジャングル・ロードは喧騒が支配し続ける。

 「郷に入りては郷に従え」とは言うけれど、実に秩序立っている東京の環状八号線でさえ運転に苦労する僕には、このジャングル・ロードで生き残るスキルもガッツも持ち合わせていない。そんな僕を毎日無事故でオフィスに送り届けてくれる運転手さん(いつも白い丸帽子をかぶり、豊かなひげを生やしたシラージさんという敬虔なムスリム)に感謝しつつ、アラーの神に今日も無事故で一日を終えられるよう祈りをささげる他ないのである。
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2011/08/12 20:20

ダッカに我が帽子を掛けるところはあるのだろうか

ダッカの大通りを埋め尽くすモノたちの列

 「住めば都」という。どんなに不便そうに見えても実際住んでみれば、なかなか居心地が良く、去りがたくなるものだそうだ。

 こんな格言で自らを奮い立たせてダッカに乗り込むexpatriate(駐在員)達の気力をそぐような統計をEconomist紙が毎年発表してくれている。題して、「World Liveability Ranking」。

世界140都市を
① 安定度(犯罪や騒乱の頻度)、
② 医療施設の質とアクセスのしやすさ、
③ 文化や環境(蒸し暑さ、食事や飲み物の質、文化やスポーツ施設の充実度など)、
④ 公立・私立学校の質とアクセスのしやすさ、
⑤ 道路や電力、公共交通機関、インターネット等の各種インフラの状況、
の5つの基準から、100点=理想的!(Ideal)、0点=耐えられない…(Intolerable)でランク付けするのだ。

 栄えある一位にはカナダのバンクーバーが二年連続で輝いている(ちなみに日本の都市では大阪がNo.10にランクインされています)。そして、われらがダッカは、二年連続のワースト2である。

「住めば都」と言うではないか。何でもかんでも数値化するのは合理的経済人の悪い癖だ。そもそも、ランキングを決定するための指標として、ダッカにとって、不利なものばかりが選択されているではないか。例えば道路ひとつをとってみても、以下のようなものを指標にすれば、ダッカは一躍世界で3本の指に入る地位に躍り出ることだろう!
☆ 一般道を走っているモノ(物・者)の種類の多さ(街中を5分程度歩いただけで見ても、乗用車、巨大なトラック、廃棄物処理場から拾ってきたようなバス、リキシャ(人力車)、オート三輪(こちらではCNGと呼ぶ)、バイク、牛、荷車、ヤギ、人(走っているバスに乗り込むために走っている)、ノラ犬などなど、まぁ10種類は軽く超える)、

そんな道路を横断するときに味わえるスリル感(歩行者用の信号機・横断歩道等というものはない。YOU-TUBE画像をお楽しみください)

☆ 路上にみなぎる活気、人や車の叫び声のボリューム
 
 実際、僕も4年前の夏、インドのハイデラバードでこうした情景に身を浸した時、その圧倒的な迫力に何か心が躍るような思いがしたし、今回同じような現象がよりスケールアップして目の前に現れているのを見て、「あぁ、またこうした場所に戻ってきた」と言う懐かしさに似た感覚を覚えたのだ。

 しかし、まだダッカ上陸後1週間しか時間が経っていないが、ある都市、あるいは国を、出張や旅行などで短期滞在することと、年単位で「住み」、「働く」こととは随分次元が違うのだ、と言う当たり前の事に、改めて気付かされつつある。

 引き続き道路を中心に話を進めると、この街の交通渋滞のすさまじさには確かに、「intolerable!」と叫びたくなる時が少なからずある。10日間や一週間ほどの旅行や出張では「目を奪われるような、あり得ない道路体験を出来ました!」で済むけれど、ここを毎日通勤する、あるいは顧客や取引先とのミーティングのために車で移動するたびに、交通渋滞はダッカの湿気と同じぐらいのしつこさで、自分の周囲にまとわり付いて離れない、となると話はかなり違ってくる。

 例えば、現在滞在しているホテルから、世銀の事務所までは距離にして10キロ。朝8:00前、未だ空いている時間に出れば車で15分もあれば楽に辿りつける(何せ信号がないのだから)。しかし8:00過ぎから始まる渋滞につかまったら最後、1時間、ひどいときには1時間半近くかかる時も稀ではない(走ったほうが速いではないか。まぁダッカの街中を走る勇気はないけれど)。

 また、現在ダッカは雨季に入り、この一週間、間断のない雨と湿った空気がダッカを包みこんでいる。低地帯にあるバングラデシュは雨季に入ると河川の増水等で国土の3分の1が水没するというが、ダッカの街中でもあちこち水没している。ただ、これは暗渠等の未整備によりちょっとした雨ですぐに道路が冠水してしまうこと、上下水道のメンテナンス不足による大量の水漏れといった人災が重なっての話らしいのだが。

 そんななか、何より驚くのは、日本だったら大雨洪水警報床上浸水でとっくに市民全員避難しているような状況にもかかわらず、ダッカ市民は、何事も無いかのように黙々とそれぞれの持ち場に向かっていくのだ。それでも、膝辺りまで冠水した道路で、大の大人を3人も乗せて自転車をこぐリキシャワラ(人力車の運転手)の苦闘振りは筆舌しがたい。そんなリキシャに、容赦なくバスや乗用車がクラクションの嵐を浴びせかけるが、残念ながら乗用車のクラクションにリキシャのスピードを上げる機能は備わっていない(車の運転手はそういう切実な思いを胸に遮二無二クラクションを押し続けているのだろうけれど)。

 洪水警報の出ない床上浸水

 
 もともと交差点を中心にすさまじい交通渋滞が常態化しているダッカの交通事情は雨の影響でさらに悪化する。今日は、世銀から10キロ弱離れたIFC(国際開発公社)の事務所で朝のミーティングをした後、世銀に戻ろうとした同僚が「2時間かかった…」と疲労困憊であった。何でも豪雨で道路が冠水し、すべての「のりもの」が客を3人乗せたリキシャと同じ速度に落ち、最後は交差点を前にして30分ほど「1ミリも」動かず車の中で軟禁状態だったとのこと。

 このようなことが常態化しているために、ミーティングやアポイントメントの設定にも、お互いにpatience(忍耐)と工夫が求められる。そう、旅人と違い「Intolerable」とゼロ点をつけて、次の町、別な国へと移っていく訳にはいかないのだ。少なくとも個人的には、そんな現実をプロとして少しでも変えようと思い、ここでしか学べないこと感じることができないことを、生活者として吸収しようと思ってやって来た訳だし、何しろ、未だ来て一週間しか経っていないのだから。

 ちなみに、英語にも「住めば都」に似た表現があると言う。「Anyplace home is where I hang my hat」…ことわざや格言ではなく、何かの歌の歌詞なんだとか。「どこだって、自分の帽子を掛けられるところがあればそこが家なのさ…」と言う感じだろうか。

 なぜ、上着を掛ける場所でも靴を片付ける場所でもなく帽子なのか、突っ込みたくなるが、兎に角、僕はこの街でしっかり帽子を掛ける場所を見つけ、そして、右脳と左脳、五感の全てを総動員して、その現実を知り、そして今の立場で自分が最も効果的にできることを模索し、実行していきたい。限られた時間の中でではあるが。だからこそ。
バングラデシュでの生活が織り成す物語 | コメント:(2) | トラックバック:(0) | 2011/08/07 20:44
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